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2014/08/18

[歴史]ふたつある桶狭間古戦場跡

織田信長といえば、その名を一躍世に知らしめたのが今川義元を討ち取った「桶狭間の合戦」。

名古屋出身ながら、
桶狭間の位置を最近まで知らなかったのでした。
桶狭間があるのは名古屋市の南東の外れ。
わたしが住んでたのは名古屋市の北東端だったので、南東端はちょっと遠いところってイメージだったのだ。

おおまかな場所はこんな感じ(下記地図参照)。

名古屋市の端っこである。
西に進軍してきた今川義元軍をやぶった桶狭間の戦いが起きたのは
1560年のこと。

清洲城を出た信長はまず熱田神宮に参拝し、
善照寺砦へ到着。
そこから南にある中島砦を経由して
今川義元の軍に向かい、桶狭間で戦ったのである。

ちなみに大高城には今川氏方の松平元康(後の徳川家康)がおりました。

この戦いが即決したのは、今川義元の首をとったから。
義元が生き延びて退却できてたら、
歴史は変わってたでしょう。
今川に人質に取られてた松平元康(要するに家康)が開放されて三河を取り戻したおかげで、信長と家康が同盟を結び、信長は背後を気にせず上洛を進められたわけで、
織田と今川の戦いが長引くとそれがままならない。
一発で決着がついたからこそ
時代は面白いことになっていったのである。



で、桶狭間の位置が具体的にわかっていらいずっと気になってたわけで、
先日、駆け足ながら、
桶狭間合戦跡を訪れたのだ。

だがしかし、桶狭間は一筋縄ではいかないのであった。
古戦場跡の史跡公園が2つあり、
どっちも「今川義元戦死の地」をうたってるのだ。

ひとつは「豊明市」が設置した豊明市側の史跡(伝承地)。

もうひとつは「名古屋市」が設置した名古屋市緑区の史跡。

地図だとこんな感じ。
両者はけっこう近い(当たり前だけど)。
これをみたら、両方を訪れたくなるではないか!



まずは豊明市側の古戦場伝承地。
入口に「史蹟桶狭間古戦場」とある。

日本庭園っぽく整備された公園はいろいろみどころがあって飽きないのだが、
注目すべきはこの2つ。
ひとつめは「今川義元が戦死した場所を示す最も古いものである」という碑。
1771年だそうな。

後ろに見える斜面に江戸時代末期に建てられた義元の墓碑がある。斜面とその上は高徳寺。
ふたつめは、今川義元の墓。
かつては塚があるだけだったというが、明治時代に墓石が建てられた。
明治時代の墓碑
江戸時代後期にはここが今川義元が討ち取られた場所だと信じられていたらしい。

続いて
もうひとつの史跡、名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」へ足を向ける。
こちらはこちらで、信長と義元の像もあり、手間がかかってる。

左手奥に信長公と義元公の像が見える


今川義元はこのあたりで戦死し、ここの泉で首を洗われたらしい。

ここも戦死地の候補
あっちもこっちも「ここで今川義元が討ち取られたんだ」といってる。

どっちだ!

どっちでもいいといえばいいんだが、
ちょいと検討してみよう。

どちらの公園にも戦いの地図が描かれている。
地図は大事だからね。それをチェックする。

豊明市側のはこちら。
少し広い範囲の地図である。
沓掛城など当時の互いの城・砦や当時の街道(鎌倉街道)も描いてあり、全体の様子がわかってよい。海岸線は当時のもの。
善性寺砦から義元本陣までは、豊明市史を元に推測したとある。

名古屋市側のはこちら。
もうちょっと現地付近を拡大した地図。
地元の桶狭間古戦場保存会によるものとある。

中島砦から山間の道を通って側面から義元本陣に攻めたという推測。
奇襲っぽい感じですな。



さて、今川義元が陣をはったというおけはざま山は、
豊明市のいう古戦場跡の南、名古屋市のいう古戦場跡の東、
両者が交わるあたりがちょうど丘になってる。


さて
義元が戦死したのは豊明市側か、名古屋市側か。
どっちだ!

今昔マップより。豊明市の方に今川義元墓とある
まあいろんな人がいろんなサイトで見解を示してるので探してください。

この時代のもっとも信頼がおける文書「信長公記」には
義元は北西を向いて布陣し、信長らは東に向かって攻めた
と書いてあります。

それ以上は
地元の人の研究や、
この戦いについて描いた「原典」である
信長の家来だった「太田牛一」による「信長公記」と
(原文がWebで公開されているし、現代語訳も出てる。わたしは現代語訳のKindle版を読んだ)、
江川達也氏が描いた歴史漫画「桶狭間合戦の真実」を読んで貰うのが一番よい。

江川達也といえば、愛知県出身で、卒業後中学校で数学教師をしてたのは有名な話だが、
その学校が有松駅(桶狭間古戦場公園の最寄り駅)のすぐ近くなのである。
だから桶狭間あたりの地勢にも詳しく、地勢からみた解釈は信用できる。
特に江川達也氏が自分で描いた当時の地形図は必見。

で、「桶狭間合戦の真実」では
信長軍は中島砦からいったん南下し、西から今川義元軍に襲いかかったと推測し、
戦死した場所は豊明市側の「桶狭間古戦場伝説地」あたりだと描かれている。

それはそれで理にかなってる感じ。

信長軍は中島砦から南下したか、西へ向かったか、
どちらだったか。

気になる人はぜひ現地を歩いて訪問してみるべし。

名鉄鳴海駅から
鳴海城址、中島砦址を経由しててくてく歩き
名古屋市の桶狭間古戦場公園を訪れ
そこからひとやま越えて豊明市の古戦場伝承地へ、
さらに足を伸ばして戦人塚、沓掛城跡を訪れ、
前後駅で終了、って感じで散策ルートを組むのがいいかと思う。
わたしは車でピンポイントで回っちゃったから
まだどちらだったかピンときてないのだ。


1 件のコメント:

  1. 豊明市、豊明史跡、桶狭間古戦場は徳川家康公幕府開府以来 300年、初代尾張藩主 徳川義直公の 成功記 にある様に、桶狭間古戦場 として、尾張藩の庇護下にあり明治時代まで管理されていた、 その由来から昭和13年 国指定史跡
    桶狭間古戦場 となった。
    名古屋 桶狭間古戦場公園は 11年前名古屋市が観光開発した所です、史実を伝える証拠は何もない。

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