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2015/01/19

稲荷下橋と稲荷

昼間、ちょいと自転車でご近所をぐるっと
スマホ2台持って作例撮り。いつものアレは撮っておかねばならないので
撮りに行ったのだ。

豪徳寺からふと東へ向かうと、
烏山緑道を「稲荷下橋」で越える。
烏山川時代(古い文献や地図には「烏山用水」とあるけど、これは烏山川の水量が少なかったので江戸時代に玉川上水から水を少しもらい、用水として使っていたから。元は自然河川なので烏山川と呼びたい)、ここに「稲荷下橋」がかかってたのだな。
明治末期の地図だとこの辺に水車小屋があったもよう。橋がかかったのはその頃かそのあとだ。


「稲荷下橋」ってことは、「近くに稲荷神社がある」ってことである。「下」ってことは、普通に考えて、稲荷は「上」にあるのだ。
烏山が作った河岸段丘を考えると、片側は世田谷城(当時)なので違う。
ってことは、東側の段丘上にあったはずである。
というわけで、東京時層地図の出番。


はい。ちゃんと神社マークがあります。
でも行ってみると、神社なんて影もかたちもない。
高度成長期にそこに区役所の庁舎ができたのだ。



そのときに……神社を壊して終わり、ってことは考えづらいので
ありがちなパターンとしては
・建物の屋上や中庭などその敷地内でちょっと移動して現存
・近くの大きな神社に合祀してもらって末社として現存
である。
どっちなんでしょうね。昭和の話なので調べればわかると思うけど、
そんなことしてたら今日撮る予定の作例を撮り終わらないのでここで話は終わり。

そうそう、向かいの公園に小さなトタンで囲われた庚申塔を発見。
最初はここに遷座されたかとちょっとワクワクしたんだけど
溶けかけた庚申塔でありました。
この坂、明治初期の地図にも載ってたので、昔からの道なんでしょう。



こうやって古い地図を見ながらうろちょろするのが面白い。
そうそう、地名ってどんどん失われてるけど、
橋の名やバス停に意外に残ってるので楽しいもんですよ。

ちなみに、稲荷下橋のひとつ下流にある品川橋、
戦国時代、吉良頼康が吉良城城主だった時代、常盤姫伝説ってのがありまして、
その常盤姫が城を抜け出して渡ったのが品川橋だったという。
ここを渡って南東に向かい、世田谷通り近くの石橋あたりで殺されてしまったとか。
詳細は「名残常盤記」で。


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