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2017/09/29

簸川神社のナゾ

日曜日の「文京区探索委員会スペシャル」に向けて
当日配布する資料を作成する。

ルートは、
茗荷谷→湯立坂→簸川神社→小石川旧流路→ランチ→極楽水(宗慶寺と善仁寺)→三百坂→伝通院
である。

で、以前からひっかかってるのが簸川神社。
江戸七氷川のひとつ。

ここ、どの資料を見ても「1650年代、もともとの社地が館林藩主(後の徳川綱吉)の屋敷地となったため、現地に遷座した」と書かれているのだ。
白山神社も同じ理由で現地に遷座したという。
今の地図で見るとこのとおり。館林藩主の屋敷は白山神社があった場所なので「白山御殿」と呼ばれてた。
それがのちに幕府の御薬園となり、小石川療養所となり、今の小石川植物園になったわけだ。で、白山神社はその北東、簸川神社はその北西にある。


さてここに、寛永時代の江戸大絵図がある。芳賀ひらく氏が調べたところ、1642年頃じゃないかという事だ。白山御殿はまだ描かれてないので、1650年代より前って事がわかる。
で、その地図をよく見ると、
どう見ても、今の簸川神社の場所に、神社が描かれているのだ。
しかも鳥居だけじゃなくて、社殿も描かれているからそれなりに大きな神社ではないか。
しかも、白山御殿となるエリアに鳥居が3つも描かれてる。
どれがどれだ?
ひとつは、白山神社だろう。残り2つは? 簸川神社は水源地にあったというので
斜面下の2つのどれかか?
では左上にある立派な神社はなんなんだ?

左上の大きな神社が今の簸川神社であるかどうかはわからないが、
少なくとも、当時と場所が変わってない伝通院と善仁寺の位置関係からすると、
現簸川神社の場所である。

考えられるパターンは3つ

・伝承が間違ってた:白山御殿ができる前から簸川神社は現在地にあった(当初からここだったのか、あるとき遷座したのかは別)。
・伝承は正しかった:現簸川神社の社地にすでに別の神社があり、氷川神社がそこへ遷座して主祭神となった。つまり現小石川植物園敷地内に描かれている3つの赤い鳥居のどれかが氷川神社だった。
・地図が間違ってた:江戸大絵図は江戸城から離れれば離れるほどアバウトになっていくので、別の神社がここに描かれた、orもっと遠くの神社を指してた

ああ、どれなのだろう。
そういうの考え出すと楽しい。

さて
前回の反省を踏まえ、
歩く順番にエリアごとに拡大地図と
当時の古地図(明治だったり江戸だったり昭和だったり)を組み合わせて
前から順番にめくっていけば、どこをどう歩いているのかわかるように仕立てる。

うん、これはわかりやすい、と思う。



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