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2013/07/27

「喜多見古墳物語」なぞに顔を出してみる

夕方から、世田谷区喜多見にある慶元寺というお寺で「喜多見古墳物語」なる地元のプチイベントがあると聞いて行ってみた。
自転車で水道道路をびょあーっと走り、旧登戸道をくねーっと走ると到着する。

喜多見ってのは野川と多摩川の間にある微高地……国分寺崖線の下だけど多摩川よりはちょっと高い土地で、
東京人の古道特集でも紹介したとこで、
歴史好きにはたまらん場所なのである。
何しろ、15世紀に江戸に館を構えてた江戸氏(紅葉山あたりに居館があったといわれてる。江戸に居を定めた最初の領主といっていいかと)が
太田道灌に追われて(といわれてる)落ちてきたのが喜多見。
江戸氏と一緒に江戸にあった菩提寺も移転してきた。
それが今の慶元寺。

太田道灌に追われたかどうかは定かでないと思うけど、
太田道灌が江戸城を築いたのが1457年、
慶元寺(元となった天台宗の寺院)が江戸から喜多見の方に移転したのが1451年、
さらに現在地に移ったのが1468年だそうだから、
太田道灌に追われたといっても過言ではないかと。

今でも慶元寺には江戸氏の墓所がある。

そこにある真新しい薬師堂が会場。
10分ほど前に到着すると、もう30人ほど集まってる。
老若男女……いやほぼ老人んだけど、中には30代とおぼしき女性や、ひとりだけ小学生男子もまじってた。

このあたりは喜多見古墳群といわれるほど古墳がたくさん残ってる。
その発掘調査をした人が案内してくれるというので話を聞きたかったのである。
最初に慶元寺の住職さん(でいいのか?)が、登場して薬師堂建設の際、この真下に竪穴式住居が発見されたという話からはじまり、
その案内で本堂裏手にある慶元寺古墳見学。

うれしい。
慶元寺に古墳があるというのは知ってたけど、一般には非公開で見られないのだ。
とうとう実物を拝めるのである。

住職さんについて中庭へ入ると、こんもりした小山が現れる。
一目瞭然である。これが慶元寺6号墳。
未発掘なので詳細はわかってないが、急いで発掘しなきゃいけないものでもないそうな。


さらにすごく小さな、これが古墳とは誰もおもわないだろうという4号墳(?)、

さらに薬師堂の裏に3号墳。
石室の角が少し顔を出してるからここは確実に石室が使われてて(粘土廓の古墳もある)
このあたりでは珍しいという。

蚊に食われながら古墳見学ののち
(実は慶元寺あたりだけで1号墳から8号墳まで見つかってる)
薬師堂に戻って座学パート1。

古墳見学の途中、どっかで見たことある人が合流したと思ったら、
世田谷区の保坂区長でありました。
ちょっと疲れた顔をしてたけど、土日にも地域のイベントに顔を出しているんだなと感心。

座学の前に区長がちょっと挨拶して、
続いて世田谷区の学芸員の寺田氏から
慶元寺古墳で見つかった埴輪の実物を見ながら
発掘の話をあれこれ聞く。
喜多見古墳群で見つかった埴輪はどれも
北武蔵(要するに埼玉)製で、
何故それがわかるかというと「顔が違う」かららしい。
この時代(5世紀末〜6世紀)は専業の埴輪工房があり、
工房によって顔が違う。



ちょっと休憩して第2部は東大大学院助教授の早乙女先生登場。
35年前に慶元寺古墳を発掘した当人。

これが面白い。
古墳時代における喜多見古墳群の位置づけ。

世田谷には多摩川台古墳群があり、そこに古墳時代前期の前方後円墳(宝来山古墳)がある。前期ってのはいわゆる仁徳天皇陵より前の時代。
だいたい、古墳時代前期から中期の前方後円墳が多摩川台とか芝丸山古墳とか東京南部の海の近くの台地上にいくつもある。
それがぱたっと作られなくなったのが5世紀後半。

そのあと、北武蔵の「さきたま古墳群」に巨大な稲荷山古墳が突然あらわれ、その後いくつか前方後円墳が作られる。稲荷山古墳から発掘した文字が刻まれた鉄剣にはワカタケル大王(雄略天皇)と書かれていて、それは5世紀後半。

で、その状況証拠から、その頃南武蔵から北武蔵へ、武蔵国の権力が移ったのではないかといわれてる。

日本書紀には534年の武蔵国造の乱について書かれていて、
(日本書紀に武蔵国の名前が出てくることはほとんどなく、大きなデキゴトとして語られてるのはこれだけといっていいくらい)
笠原の使主(おみ)と同族の小杵(おき)が武蔵国造の座を争い、
使主は朝廷の助けを借りてその座を守ったのだという。
稲荷山古墳築造時期とは60年くらいずれてる。

5世紀後半に武蔵国の中心勢力が南武蔵から北武蔵に移り、
その何代か覇権を奪還しようという争いが起こり、
それが武蔵国造の乱として記録されたと考えれば、時期のずれは説明できる。

でもまあ、さきたま古墳群のあたり(行田市あたり。かなり栃木に近い)と多摩川台古墳群のあたり(世田谷から大田区の多摩川沿い)はかなり距離が離れてるわけで、
あの時代にあれだけ離れた場所で大きな争いがあったとは考えづらいという人も。
日本書紀に記述が残っているわけだから、
何らかの内乱みたいなのがあり、結果として多摩地区などが朝廷直轄地になったというのは書き残すべきことだったのだろうな。

で、喜多見古墳群は5世紀末から6世紀で、権力が北武蔵に移ってから作られたわけだ。
ここでさっきの埴輪の話。
喜多見古墳群ができたのは、武蔵国の中心が北武蔵に移ったあとのことで、
古墳を作るにもいちいちそっちの許可を得て埴輪を作って運んだんじゃないかと。
だから北武蔵の埴輪が喜多見で使われたわけだ。

ちなみに、田園調布で埴輪工房跡が発掘されてる。
こっちは南武蔵がまだ力を持ってた頃、多摩川台古墳群(ちなみに田園調布と谷を挟んだ向かいにある)のために埴輪を作ってたと考えれば悪くない感じ。

早乙女先生の話は古墳から発掘された遺物で年代を推測する話や
当時の日本と朝鮮半島の関係を古墳から発掘された遺物で推測する話など
あれこれ。

南武蔵は多摩川系、北武蔵は利根川系。荒川系は何をやってたんだろう、この辺は強い勢力はなかったんだろうかとふと思う今日この頃。

こういう話って想像力を膨らますと楽しいよねえ。
北武蔵と南武蔵はどんな道でつながってたんだろうとか←陸路だとしたらどの道? あるいは東京湾を介した水路?
なぜ北武蔵が勢力を持ったのだろうとか(毛野国との関係?)
そもそも、なぜ武蔵国はこんなに広いんだろうとか、
(これだけ離れた場所で権力争いするんだったら、北武蔵と南武蔵で別の国であってもよくないか?)
謎はつきませぬ。

で、その帰り、成城学園前で三井さんとちょっとお茶してたら
天気がやばそうだったので慌てて帰るも、
帰宅直前で間に合わず。とほほ。



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