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2014/09/15

[フィールドワーク]3日目は低地歩きの境界協会。

3連休を全部街歩きでつぶすというなんともマニアックなアレですが、
待ち合わせ場所へ行ってみると、3日連続で見る顔もちらほら。
中には4日連続の人も(金曜日に新潮講座があったので)。
みんな、好きですな。

今日は境界協会。境界を楽しもうという意図で、
足立区と葛飾区の区界を少し歩いて楽しみ、
その後葛飾区郷土と天文の博物館で
学芸員の谷口さんに生解説していただき、
その後宴会という。
わたしは以前東京人で対談して以来ご無沙汰してる谷口さんにお会いするというのが一番の目的なのでした。

集合場所は小菅駅。侘びた駅でありました。


・足立区と葛飾区の境は武蔵国と下総国の国境でもあったのだった

 いろいろと見どころはあったのだが、個人的なツボは「足立区と葛飾区の区界はかつての武蔵国と下総国の国境だった」という事実。
 江戸時代以前、隅田川が武蔵国と下総国の境だったのだが、これ、もっと正確にいうと「古隅田川」なのだ。江戸時代に流路がいろいろと変えられ、大正〜昭和初期に荒川放水路ができたおかげでわかりにくくなったのだけど、昔の隅田川(古隅田川)を挟んで西側が武蔵国、東側が下総国だったのである。
 今の足立区は武蔵国足立郡で、川沿いに氷川神社くらいまで伸びてた広い区域だった。今の葛飾区は下総国葛西郡(当初は葛飾郡だったが、葛西と葛東に分かれた)に属し、こちらも古利根川流域をかなり上流まで伸びてた細長い区域だったのだ。

各種資料を元に推定

 左の赤い線が古隅田川の流路。隅田川は向島・牛嶋が「嶋」となるような感じで分かれてて、こっちが武蔵と下総の境だったそうな。だから「両国橋」という名前は実は間違い。江戸時代の時点でもうその記憶が失われていたんですねえ、と谷口さん。ってことは墨田区の南半分は昔から武蔵国だったのか。
 このクネクネした古隅田川と下総台地の下を流れていた太日河(今の江戸川)に挟まれた地域が、葛西郡だった。下総台地側が「葛東」。合わせて葛飾だった。

 おお、という感じ。
 で、古隅田川流域を歩いてたら、綾瀬駅近くで駐輪場と成り、駅近くの暗渠は駐輪場として使われるの法則が立ち上がり、コンクリート蓋の隙間から水が見えた日にはみんなで覗き込むという妖しい集団なのでした。






・念願のとらさん埴輪と対面する

 葛飾区郷土と天文の博物館の最寄り駅は京成のお花茶屋だが、我々はJR亀有駅から向かう。
 博物館で谷口さんと再会。
 ここで書物で知るだけだった、俗称「寅さん埴輪」を発見。
 葛飾区は東京低地であるのだが、河川が運んだ土砂による自然堤防や微高地が存在し、そこには古墳時代の遺構が残っているのだ。そのひとつが、立石さまや南蔵院古墳がある「立石」周辺であり、男はつらいよの舞台で有名な「柴又」なのである。
 柴又八幡宮本殿は古墳の上に作られており、発掘調査で、帽子をかぶった埴輪が出土した。それが男はつらいよの「寅さん」を彷彿とさせるというので、寅さん埴輪。
 さらに、柴又は往古は「嶋俣」と呼ばれており(要するに嶋のような微高地だったのだ)、正倉院に保管されていた養老時代(8世紀前半)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍に「刀良」(とら)と、佐久良(さくら)という人物が登場しており、とらさんとさくらじゃないかということで、話題になったのである。
 その実物(戸籍の方は複製だったけど)を確認できたのはよいこと。
 「男はつらいよ」は実は一作も見てないんだけど、それはまあそれとして。



 足立・葛飾・江戸川といった東京東部は、普段は足を踏み入れない場所であり、土地勘もなく、「東京古道散歩」を書いたとき古代東海道にそって市川・松戸まで自転車で走っただけで、一度きちんと訪れてみたかったのである。
 昨日今日の2日間で、武蔵野台地と下総台地の間にたちはだかる東京低地のイメージが具体的になってきたのでよしよしという感じ。

 夜は谷口さんもまじえて亀有駅前で宴会。

 亀有駅から千代田線で帰宅。
 亀有駅って常磐線なんだけど、いわゆる常磐線(上野から常磐方面へいく電車)は停まらないのね。常磐線各停は上野にはいかず、北千住から千代田線にはいっちゃうのだ。もうほとんど地下鉄千代田線の駅じゃないか。知らなかったのでびっくり。


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