夏目漱石アンドロイド(CV:夏目房之介)というものがある。
漱石アンドロイドをベースにアンドロイドというものを定義するならば
・人間に似せた人型のロボットであり可能な限り人に近い姿形を持つ
漱石アンドロイドは限りなく夏目漱石(写真やデスマスクなどをベースにしている)に近い外観を持つ
・自律的な動作や発話はなくても構わない
漱石アンドロイドは自律的な動作はなくオペレーターの遠隔操作によって動く
漱石アンドロイドは音声合成機能は持つが自律的な会話はできずあらかじめ用意されたテキストをしゃべる
・見た目が人間であれば歩行、移動能力はなくても構わない
漱石アンドロイドは肩より上しか動かない
とでもなろうか。
だから最先端ロボットを味わえるかというとそうではないのだが、
その面白さは別のところにある。
ということを実感しに行ってきたのである。
そんなわけで二松学舎大学へ向かう。暑い。
二松学舎大学(人文系担当)と大阪大学(理工系担当。この世界では第一人者の石黒研究室によるもの)と朝日新聞(かつて夏目漱石が所属していて、写真などのデータをいっぱいもってる)の共同プロジェクトだが、主体は二松学舎大学といっていいだろう。
たまたま愛すべき街歩き仲間(というかスリバチ学会仲間)である島田先生が二松学舎大学の教授でなおかつこのプロジェクトに関わっていて今回のイベントで登壇するということから、潜り込ませてもらったのである。
オープニングアクトは平田オリザ氏による漱石アンドロイド演劇「手紙」
正岡子規と夏目漱石の書簡を題材に。
シンポジウムが
はじまってみると、人文学系と理工学系だけじゃなかった。
さらに法学系(弁護士)や、芸術系(演劇)まで加わり
漱石アンドロイドを叩き台に実に幅広く面白い論が飛び交ったのである。
人文と理工という意味では平田オリザ氏の人間らしさの話がポイントをついてて、
たとえば、机の上のカップを取るという動作をロボットにさせるとき
理工系的には確実に無駄のない動作でカップを取らせようとするけれども
(理系の人はガシッとつかませたがる、と表現してた)
実際の人間はカップをつかむまでに余計な動作が入るし、
それをきちんと表現できる方が演技がうまいといわれる。
理工系では如何にロボットの性能を人間に近づけるかをやってきたけど
人文的には「人間らしく」あればいい、という。
最終的には
人間らしくみせるための冗長さをあらかじめ組み込むのではなく
動作にしろ会話にしろ様々な学習をさせていく過程で
結果としてそういう人間らしい冗長さが出るといいなあと思う。
するとどうなるのか知らんけど、
そこは「AIの遺電子」を読んでいただくということで。
平田オリザ氏の話で面白かったのはもうひとつ。
日本人は人間と猿、人間とロボットの区別が曖昧であることや、
擬人化が得意。
それは日本の強みなので、
ロボット愛護法的なものは日本から発信すべきだということ。
すぐ擬人化しちゃうのは強みか弱みかといわれると考え込んでしまうのだけど
(当然、両面あるわけで)
モノへ感情移入できちゃう現象を見ていると
AIやロボットを道具としてひとつ下のものとして扱うより
面白い未来が訪れそうではある。
かくして、
ロボット工学三原則を前にひとり座る夏目漱石アンドロイド、
という時代がもうやってきているのであった。
「不気味の谷を歩け」。
「Walk on the uncanny valley」。
そんなこんなで文化的な一日でありました。
会場で、アスキー総研の遠藤さんをお見かけしたので挨拶。
他にテック系メディアの人たちが取材に来てなかった(ようにみえる)のは
ちょっと残念。
技術的な面白みはないかもしれないけど、
ロボットへの人文系からのアプローチをテック系の視点から取材するって
興味深いと思うのだけれども。
おまけ。
祖父と、祖父より歳をとってしまった孫が並んだシュールな写真。