東大政策ビジョン研究センターからメールあり。
快諾したところ、ページのトップで使われてた→震災復興政策支援サイト
興味深い内容なのであとでゆっくり読む。
デジタルカメラマガジン編集部で打ち合わせ。
新しく連載をはじめることになりそう。
久々だなあ、デジカメマガジンに書くのも。
驚いたのは編集長が、むかーし、別の本で一緒に仕事した人だった。
日本実業出版社のエスカルゴムックという定期的に出てるムック本があって
パソコン関連の企画で出すたびに借り出されて、
毎号20ページくらい書いてたのだ。
前世紀末くらいの話だな。たぶん。
そのとき編集部にいた人なのである。
これは驚きましたです。
打ち合わせ後、ちょっと散歩したくなり、
靖国神社へ向かう。靖国が目的じゃなくて、さらに九段坂を下ったところにある
筑土神社に行ってみたかったのだ。
話は平安時代に遡る。
平将門が京都で殺され、その首が東京まで飛んできて
今の大手町あたりに落ちた。いわゆる「将門塚」である。
そこに将門を祀った神社が創建された。
それが「津久戸明神」で、筑土神社の前身だ。
15世紀末、江戸城を築城した太田道灌が、それを江戸城の北西あたりに移し、
田安明神と名前を変えた。
16世紀半ばに九段坂に移転、
家康が江戸城に入った頃、江戸城拡張に伴って、
牛込見附へ移転。
そして17世紀初頭に江戸城外堀拡張に伴って飯田橋近くに移転。
そこはたまたま筑土八幡神社があった。その近くに筑土明神として祀られたのだ。
話がややこしいけど、筑土八幡と筑土神社は名前がたまたま似てただけ。
それが戦争で焼け、戦後になって元の場所(というか田安明神があった場所)の近くということで
九段に移転したものの、九段中学校建設予定地にひっかかり、
現在地へ移転したのが1954年。
詳しくは筑土神社のホームページをどうぞ。それを参考にしております。
筑土神社の変遷をおおざっぱに |
なんかややこし過ぎますな。
移転で困るのが神社の氏子。昔は遷座とともに移動してたが、昭和の時代には無理ってことで、
氏子が住んでた船河原町に筑土神社の飛地社として小さな神社を建てたのだという。
2002年にたまたま撮ってた船河原筑土神社 |
だから由緒にあたるのは大事。
で、わからないのが神田明神との関係。
筑土神社は940年創建(将門が死んですぐ)と伝わる平将門を祀った神社であり、将門塚の近くにあった。
その頃、将門塚の近くにはもうひとつ神社があったとされる。
神田明神である。
Wikipediaによると、740年に豊島郡芝崎村(今の大手町あたり。将門塚の近く)に創建されたと伝わり、
鎌倉時代の1309年、将門の祟りを鎮めるために、神田明神に神として祀ったというのだ。
神田明神が今の場所(湯島)に遷座したのは江戸時代のこと。
じゃあ鎌倉時代、すでにそこで平将門を祀ってた津久戸明神はどうしてたんだろう。
津久戸明神があったのになぜわざわざ神田明神に祀ったのだろう。
それ以前に、なぜ下総国出身で戦死したのも下総国である将門の首が
武蔵国の端にある芝崎村に飛んできた(あるいは京から持ち去られて埋められた)のだろう。
すごく気になるのだがよくわからない。
将門塚はもとは古墳だったという話もあり、
6〜7世紀頃からこのあたりに集落があって、
芝崎村と呼ばれるようになり、
8世紀には古社古刹もできて古代東海道も通っていた、という
感じではあります。
ちなみにもうちょっと東へ行くと平川河口で高橋があり(今の常磐橋あたり)、
江戸氏の時代には湊としてそれなりに栄えていたもよう。
1 件のコメント:
全て推定です。
神田明神の創建は730年ですが、平将門が祀られたのは1309年です。時宗の真教上人が将門に法号を贈ったことになっています。それが日輪寺、そしておそらく将門の塚付近にあった安房神社(摂社か)が復興され神仏習合された可能性があります。神田明神という名称は1616年以降の可能性があります。
それに対し、築土神社は940年の創建で氏神としての性格が強かったのではないでしょうか。ただし、築土神社の神仏習合の可能性はわかりません。
コメントを投稿