Nikkorレンズならそのままニコンのボディにつければいいやんか、
という話はあるけど、
ムリなのである。
なぜなら
・ニコンのボディはレンズごとフジヤカメラに行っちゃったから
・光学ファインダーではピントの山がわからないヘタレだから
(その上、光学ファインダーがしっかりしてるカメラは高くて重い)
そういう意味では
マニュアル露出のセッティングがしやすくて
EVFで拡大表示やピーキング(シビアなフォーカスではアテにならないけど)が容易にできる
X-T2っていいのだよ。
それはともかく。
今週土曜日に迫った「東京古道散歩」のための配付資料を作る。
現代地図(カシミール3D スーパー地形セット)やら
明治前期の迅速図(これは紙で買ったヤツをスキャンしてある)やら
江戸名所図会の絵画やらを組み合わせて作ってるんだが、
作業してると細かいことが気になる。
地名の由来とか旧地はどこだったかとか。
ローカルな、なおかつ信頼性のある情報ってネットだとなかなか見つからない。
がさごそがさごそ←探してる音
あった。昔、板橋区の郷土資料館で購入した本。
特に「いたばしの地名」が素晴らしい。
細かいところまでちゃんと調べてあるし、古道の話もちょっと載ってる。
わからないことはわからないと書いてある。さすが。
古地図も探すが、さすがに志村までくると江戸からちょいと離れているので
良いものが見つからない。明治以降ならあるんだけど。
なんとか国立国会図書館デジタルコレクションで中山道の絵図を見つけたが、ちょっと今回の地図として使うには難しい。
そうだ。
「江戸近郊道しるべ」の「志村に遊ぶ記」で、村尾嘉陵が手製の地図を描いてなかったか。よし、ってんで手持ちの東洋文庫やらeBookJapanで買った電子版やらにあたるが、
地図が小さくて文字がつぶれてる。
これでは使えないなあ。
あ、困ったときの「国立国会図書館デジタルコレクション」。
ここで「嘉陵紀行」「江戸近郊道しるべ」(嘉陵紀行という名で出版されたこともあったので)の両方で調べると、
「江戸近郊道しるべ」の優れたカラー図版発見。
国立国会図書館デジタルコレクションは研究用として高解像度でスキャンしたデータを公開してくれてるので素晴らしい。
何千円買った本より無料でダウンロードできるここの方がよい資料になるとは。
もちろん著作権はとっくに切れてるので問題ないのである。
村尾嘉陵というのは、江戸時代後期、いわゆる化政期の武士で、
老後、江戸近郊を歩き回っては紀行文を残しているのだ。時には手製の地図までつけて。
簡単にいえば「江戸時代の街歩きブロガー」、「街歩きブロガーの元祖」である。
上記の志村の地図もすばらしい。中山道・岩槻街道・川越街道をシンプルに赤で描きつつ、
志村についてはちゃんと「古城址」「延命寺」「清水薬師」とポイントを抑えてて、
古城址にはちゃんと「カラ堀アトアリ」と注釈付。
「江戸近郊街歩きを歩く」って紀行連載、
書きたいので、どこかのっけてくれませんかねえ。
企画書書くか。
というわけで
国立国会図書館デジタルコレクションは超素晴らしい。
国立公文書館のデジタルコレクションは普通に素晴らしい
2018/01/30
2013/12/15
[江戸近郊道しるべ]谷中に遊ぶ記
谷中にあるともだちの店に遊びにいくというので
付き合う。
村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」にある「谷中に遊ぶ記」の道筋を辿ってみようと思ったのである。
「谷中に遊ぶ記」は谷中にある4つのお寺を回るだけのたった4ページ(東洋文庫版)の短い紀行であるが、サンプルとしては短くてよい。
地下鉄の中でGoogleMapsに回るべき寺(全部現存してた!)に☆をつけ、
参考にする。
根津駅を降りて、EveryTrailを久々に起動。トラッキングを開始する。
言問通りを歩き、藍染川跡を渡ってすぐ、右手に天眼禅寺あり。
嘉陵が詣でた太宰春台の墓を尋ねる。
嘉陵が江戸時代後期に描いた墓石はそのままだ。
天眼寺のはす向かいに玉林寺。
嘉陵が詣でた中村蘭山の墓は見つからず。
残念。
徳川家光の頃はここからの眺望がよく、不忍池まできれいに見えたらしい。
つづいて、東京時層地図を見ながら、村尾嘉陵の当時からあったと思われる細い道をはいる。ヒマラヤ杉の三叉路につながる道だ。
そこからさらに奥へ行くと領玄寺……であるが、
わたしはアホなので間違えました。
突き当たりにある寺としかチェックしてなかったので
間違えて、ひとつ手前にある蓮華寺を訪れてよしとしてしまうというていたらく。
あほすぎます。
領玄寺はさらに奥なんだってばー。
後日、再挑戦しなければ。
そして嘉陵本の記述通り、そこから少しそれて、瑞輪寺。
江戸時代は山門に続く道の両脇に立派な桜が連なってたそうであるが、
もちろんおもかげなし。
残念。
それにしても、たったよっつしかない寺をめぐるのに
ひとつ間違えるとはアホにもほどがあるというもの。
いくら谷中が寺町で寺だらけとはいえアホすぎます。
寺の名前くらい毎回チェックしろよ>自分
今頼まれてる、iPhoneで古地図散歩する本のサンプルにしたかったのに……
また作業が遅れます申し訳ない>関係者
その後、初音通り(でいいのかな)を日暮里方面へ北上し、
明治維新時の弾痕を見たのち(このお寺、上野戦争時、上野から逃れてきた彰義隊をかくまったため、新政府軍に銃撃を受けたんだそうな。その当時の弾痕が残っている)、
ともだちと合流して、
チョコレートケーキを喰らい、
ちょいと夜の猫を撮影して帰宅。
iPhoneで古地図散歩する本の構成を考えて、
サンプルとなる章を書いてて、
間違いに気づいてorzとなってフテネする。
付き合う。
村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」にある「谷中に遊ぶ記」の道筋を辿ってみようと思ったのである。
「谷中に遊ぶ記」は谷中にある4つのお寺を回るだけのたった4ページ(東洋文庫版)の短い紀行であるが、サンプルとしては短くてよい。
地下鉄の中でGoogleMapsに回るべき寺(全部現存してた!)に☆をつけ、
参考にする。
![]() |
| iPad版東京時層地図+Skitch |
言問通りを歩き、藍染川跡を渡ってすぐ、右手に天眼禅寺あり。
嘉陵が詣でた太宰春台の墓を尋ねる。
嘉陵が江戸時代後期に描いた墓石はそのままだ。
天眼寺のはす向かいに玉林寺。
嘉陵が詣でた中村蘭山の墓は見つからず。
残念。
徳川家光の頃はここからの眺望がよく、不忍池まできれいに見えたらしい。
つづいて、東京時層地図を見ながら、村尾嘉陵の当時からあったと思われる細い道をはいる。ヒマラヤ杉の三叉路につながる道だ。
そこからさらに奥へ行くと領玄寺……であるが、
わたしはアホなので間違えました。
突き当たりにある寺としかチェックしてなかったので
間違えて、ひとつ手前にある蓮華寺を訪れてよしとしてしまうというていたらく。
あほすぎます。
領玄寺はさらに奥なんだってばー。
後日、再挑戦しなければ。
![]() |
| 今昔散歩より。瑞輪寺も玉林寺も当時はでけー。 |
そして嘉陵本の記述通り、そこから少しそれて、瑞輪寺。
江戸時代は山門に続く道の両脇に立派な桜が連なってたそうであるが、
もちろんおもかげなし。
残念。
![]() |
| 奥に見えるのが瑞輪寺。江戸後期は桜並木だったらしい |
ひとつ間違えるとはアホにもほどがあるというもの。
いくら谷中が寺町で寺だらけとはいえアホすぎます。
寺の名前くらい毎回チェックしろよ>自分
今頼まれてる、iPhoneで古地図散歩する本のサンプルにしたかったのに……
また作業が遅れます申し訳ない>関係者
その後、初音通り(でいいのかな)を日暮里方面へ北上し、
明治維新時の弾痕を見たのち(このお寺、上野戦争時、上野から逃れてきた彰義隊をかくまったため、新政府軍に銃撃を受けたんだそうな。その当時の弾痕が残っている)、
![]() |
| ↑今日のシータ。クリックするとパノラマが開きます↑ |
チョコレートケーキを喰らい、
ちょいと夜の猫を撮影して帰宅。
iPhoneで古地図散歩する本の構成を考えて、
サンプルとなる章を書いてて、
間違いに気づいてorzとなってフテネする。
2013/06/05
村尾嘉陵「阿佐谷村神明宮道の記」を辿る(「江戸近郊道しるべ」より)
村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」シリーズ第3弾。
業界筋では「嘉陵本」と言われてるっぽいんだけど
それはともかく、
この道、現代語訳版では略されてて残念。
東洋文庫版で3ページほどの小さなエントリーなのではずされたんだろう。
「阿佐谷村神明宮道の記」はいきなり、青梅街道からはじまる。
文政9年(1826年)10月(もちろん旧暦)。
でもそこから「二丁」(まあアバウト220mくらい)ばかり先へいったところに、ほどよい分かれ道はない。再度青梅街道沿いを走って確認しなきゃなあ。まあ、「二丁」という記述がどのくらいアバウトかによるのだけど、
どこであるにしろ、このあたりで右折してまっすぐ行くと、現早稲田通りにあたる。
旧早稲田通りは石神井村弁財天につながっているので、早稲田通りに出るにはこちら、ってな意味の道標だろう。
この手の道標は村の境に立ってることが多いので、中野村と高円寺村の境に相当する道かと思う。
この道は現存する。道標が残ってるかどうかは記憶にないけど、環七のあたり。
今でもその道を北西へ行くと、右手に稲荷がある。馬橋稲荷である。
嘉陵の当時は、神社名を掲げた額もなく、狐の絵が描かれた額を見ていなりなんだなとわかったというレベルだったそうな。
実のところ村の神社なんてそんな感じだったのだろう。
明治の地図でみるとこんなルートである。
実はこの相沢喜兵衛宅、今でもある。もちろん建物や敷地は違うだろうけど。
阿佐谷神明宮あたりを自転車で散策した際、巨大な敷地を持つ「相沢」って御屋敷があって、すんげー気になってたのだ。
でもこれで判明した。少なくとも江戸時代には阿佐谷村の名主として広大な屋敷を持っていたのだ。それより昔は調べないとわからないけど、神明宮もその横の世尊院も相沢家が管理していたっぽいニュアンスで書かれている。
中央線阿佐ヶ谷駅があそこに作られたのも、名主の家が近いからかもしれないと陣内先生もおっしゃってた。
中央線ってほとんど人が住んでない農地に敷かれたのだけど(だからあんなにまっすぐに敷けたのだ)、阿佐ヶ谷駅だけは古道とまじわる場所にあるので気になってたのである。
ちなみに阿佐谷の谷は「桃園川による浅い谷」が語源といわれている。
神明宮は中世に遡る古社(日本武尊伝承もある)で、当初は御伊勢の森(現地から東北へ少しいった、早稲田通り沿い)にあったがここに移転したらしい。
脇にある世尊院は、中野にある宝仙寺の末寺。宝仙寺はもともと阿佐谷(今の阿佐ヶ谷駅南あたり)にあったが、室町時代(1429)、それが中野へ移転するに伴い、世尊院が創建されたのだという。
宝仙寺は源義家が不動明王像を安置するために開いたといわれてる。平安時代後期である。
→混沌の屋形風呂: 石神井公園で雨に降られた日
さらに室町時代、江戸氏の一族が書かれた文書に「あさかやどの」とある。
それがこの阿佐谷で、中世は江戸氏系の阿佐谷氏が領していたもよう。
つまり、それほど古い場所であり、
鎌倉古道が通っていたのもうなずけるってもんだ。
阿佐ヶ谷は桃園川沿いに開けた古い集落だったのである。
南北に鎌倉古道が走り、北にある早稲田通りも実は古道で、これが豊島郡衙へつながってた道の名残じゃないかとわたしは思っております。
国府→乗瀦→豊嶋の道筋ですな。
さて嘉陵のルートは現代の地図だとこんな感じ。太い青の線がそう。
古道を探す上で「この道はいったいどのくらい古いんだろう」と思ったら、
武蔵野台地の場合は、地形をみるといい。
武蔵野台地は江戸時代に玉川上水など各種用水路が引かれるまでは農耕に向かず、
中世以前の集落は水が豊富な川沿いにしかなかったのだ(たぶん)。
そういう古い集落を結んでてなおかつ古い伝承を持つ寺社がある道は古道の可能性が高い。
たとえば「高円寺」も桃園川沿いにある。
座談会で陣内先生と阿佐ヶ谷の話をちょっとした記念で、久々に「江戸近郊道しるべ」ネタでした。
業界筋では「嘉陵本」と言われてるっぽいんだけど
それはともかく、
この道、現代語訳版では略されてて残念。
東洋文庫版で3ページほどの小さなエントリーなのではずされたんだろう。
「阿佐谷村神明宮道の記」はいきなり、青梅街道からはじまる。
文政9年(1826年)10月(もちろん旧暦)。
堀の内村妙法寺へ行くべき道のところより、二丁ばかりも青梅の方へ街道をゆけば、→の右に石の榜示(この場合は道標ってことでいい)たてり、石神井村弁天道、谷原村東高野山道と刻む。青梅街道から妙法寺へ行くには、鍋屋横丁の信号を南に折れるのが一般的。嘉陵もそのルートを以前にも使ってる。
でもそこから「二丁」(まあアバウト220mくらい)ばかり先へいったところに、ほどよい分かれ道はない。再度青梅街道沿いを走って確認しなきゃなあ。まあ、「二丁」という記述がどのくらいアバウトかによるのだけど、
どこであるにしろ、このあたりで右折してまっすぐ行くと、現早稲田通りにあたる。
旧早稲田通りは石神井村弁財天につながっているので、早稲田通りに出るにはこちら、ってな意味の道標だろう。
この手の道標は村の境に立ってることが多いので、中野村と高円寺村の境に相当する道かと思う。
なおそのさき少しばかりゆけば、又石の榜示あり、阿佐谷神明道とあり、そこより右に曲がりて、みちの左右楢の木たてる中を行くことしばらくにして、うちひらけたる田あるところに出(この間に民家1,2戸あり)、又そこを過ぎて、楢、くぬぎの中道を行けば、又田あり、左右のながめ前におなじ、なお行けば……(中略)、道の東の木立のおくに、小社あり……江戸時代後期は楢やクヌギの雑木林、ときどき田んぼっての中に道があったのだ。
この道は現存する。道標が残ってるかどうかは記憶にないけど、環七のあたり。
今でもその道を北西へ行くと、右手に稲荷がある。馬橋稲荷である。
![]() |
| 馬橋稲荷。2011年撮影。 |
実のところ村の神社なんてそんな感じだったのだろう。
ゆき行程に、又田あり、向こうに見える木立の影に、萱ふける長屋門、軒端たかく作りなしたる家あり……(中略)……老たる女のありつるに、この屋にすむ人は何というぞと問えば、相沢喜兵衛といいて、村の名主をつとむるよしを答ふ……(中略)……神明宮はいづかたおと問えば、この屋の垣に沿って、後ろの方に行けば、鳥居たてるぞ、神明宮にてましますとおしゆ。かくして相沢家の御屋敷前で老女に道を尋ねて無事到着。ちょうど屋敷の裏手に神社があったのだ。
明治の地図でみるとこんなルートである。
実はこの相沢喜兵衛宅、今でもある。もちろん建物や敷地は違うだろうけど。
阿佐谷神明宮あたりを自転車で散策した際、巨大な敷地を持つ「相沢」って御屋敷があって、すんげー気になってたのだ。
でもこれで判明した。少なくとも江戸時代には阿佐谷村の名主として広大な屋敷を持っていたのだ。それより昔は調べないとわからないけど、神明宮もその横の世尊院も相沢家が管理していたっぽいニュアンスで書かれている。
中央線阿佐ヶ谷駅があそこに作られたのも、名主の家が近いからかもしれないと陣内先生もおっしゃってた。
中央線ってほとんど人が住んでない農地に敷かれたのだけど(だからあんなにまっすぐに敷けたのだ)、阿佐ヶ谷駅だけは古道とまじわる場所にあるので気になってたのである。
ちなみに阿佐谷の谷は「桃園川による浅い谷」が語源といわれている。
神明宮は中世に遡る古社(日本武尊伝承もある)で、当初は御伊勢の森(現地から東北へ少しいった、早稲田通り沿い)にあったがここに移転したらしい。
脇にある世尊院は、中野にある宝仙寺の末寺。宝仙寺はもともと阿佐谷(今の阿佐ヶ谷駅南あたり)にあったが、室町時代(1429)、それが中野へ移転するに伴い、世尊院が創建されたのだという。
宝仙寺は源義家が不動明王像を安置するために開いたといわれてる。平安時代後期である。
→混沌の屋形風呂: 石神井公園で雨に降られた日
さらに室町時代、江戸氏の一族が書かれた文書に「あさかやどの」とある。
それがこの阿佐谷で、中世は江戸氏系の阿佐谷氏が領していたもよう。
つまり、それほど古い場所であり、
鎌倉古道が通っていたのもうなずけるってもんだ。
阿佐ヶ谷は桃園川沿いに開けた古い集落だったのである。
南北に鎌倉古道が走り、北にある早稲田通りも実は古道で、これが豊島郡衙へつながってた道の名残じゃないかとわたしは思っております。
国府→乗瀦→豊嶋の道筋ですな。
さて嘉陵のルートは現代の地図だとこんな感じ。太い青の線がそう。
古道を探す上で「この道はいったいどのくらい古いんだろう」と思ったら、
武蔵野台地の場合は、地形をみるといい。
武蔵野台地は江戸時代に玉川上水など各種用水路が引かれるまでは農耕に向かず、
中世以前の集落は水が豊富な川沿いにしかなかったのだ(たぶん)。
そういう古い集落を結んでてなおかつ古い伝承を持つ寺社がある道は古道の可能性が高い。
たとえば「高円寺」も桃園川沿いにある。
座談会で陣内先生と阿佐ヶ谷の話をちょっとした記念で、久々に「江戸近郊道しるべ」ネタでした。
2013/05/13
村尾嘉陵「石神井の道くさ」の足跡を辿る(「江戸近郊道しるべ」より)
ITMediaにiPhoneカメラ連載を書いてメール。
今回は、位置情報の話。
TwitterもFacebookもLINEもちゃんとジオタグは抜いてくれてるとかそういう話。
つい村尾嘉陵本とにらめっこ。
五街道のように大勢の往来があって賑わってた幹線道路より、
村尾嘉陵が散歩したような田畑と林の中に朽ちかけた祠がみつかるようなそんな郊外の道が味わい深いのですよ。
いひひひ。
というわけで
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」解読シリーズ第2弾は石神井。
文政5年の9月11日(陰暦)、村尾嘉陵は石神井の弁財天に詣でようと、
椰子の実を水筒代わりに日の出くらいに家を出る。
最初に出てくる地名は椎名町慶徳屋。
ググってみる。あった。素晴らしい。
豊島区立郷土資料館だより「かたりべ」がPDF化されてWebに上がっており、そこに慶徳屋に関する寄稿があり、慶徳屋の場所も解明されてたのである。
慶徳屋は今の目白通り沿い。明治初期の地図を開き、慶徳屋の場所を特定。
本文の記述通り、慶徳屋先の道を北へ向かい川越街道の上板橋宿へつながる道もちゃん とある。
今の目白通り〜新青梅街道の元になった道もある。
地図によると江古田のあたりでぐっと北に回って川を渡ってるので、川を渡ったあたりかと思う。
さらに西に向かうと、山崎喜兵衛という醤油作りを商うものの家。
これは場所が特定できたので地図に記す。今の中野区郷土資料館の近く。
新青梅街道って聞くと、昭和になって作られた新しい街道のようで、確かにそうなのだけど、何もないところにぐわっと建設したのではなく、元になる道はちゃんとあったのだ。いつか旧道を辿ってみよう。
で、地図です。
江古田から先はもうほんとに畑ばかりのようで、
さらに進んで井草村、途中で道を北に折れると田んぼがあり、石橋で石神井川を渡る。
このあたりまでくると旧早稲田通り。わたしが石神井公園を訪れる際に自転車で走る道なのでよくわかる。古道っぽいよい道である。このあたり、石塔前にあった解説板に、往来が多くて茶屋もあったと書いてあるが、嘉陵が歩いたときは「この辺一人の往来を見ず」だそうで、寂しかったらしい。
橋を渡った突き当たりに禅定寺。これは現存する。
左に曲がると(本文では、西へ山に沿って、とある)、道常寺(道場寺。現存)、さらに三宝寺(現存)。
ぐるっとまわって北へ行くと、氷川神社。これも現存。
氷川神社西側の道を北へ行くと石神井公園であり三宝寺池である。
帰りは同じ道を通るのもつまらんってことで(その気持ちわかります)、
石神井川を渡ってさらに南下し、天沼、沼袋と抜けて淀橋と面影橋の間にある橋を渡るというから、おそらくは旧早稲田通りを道なりに南東から東に向かい、小滝橋で神田川をわたったんじゃないかと思う。
椎名町から江古田のあたりはあまり行かないので土地勘はないのだけど、なんとかなるもん、実際に歩いたルートがわかると、本文の記述も妙にリアルに感じられるから面白い。
興味ある方はこちらをどうぞ。
今回は、位置情報の話。
TwitterもFacebookもLINEもちゃんとジオタグは抜いてくれてるとかそういう話。
つい村尾嘉陵本とにらめっこ。
五街道のように大勢の往来があって賑わってた幹線道路より、
村尾嘉陵が散歩したような田畑と林の中に朽ちかけた祠がみつかるようなそんな郊外の道が味わい深いのですよ。
いひひひ。
というわけで
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」解読シリーズ第2弾は石神井。
文政5年の9月11日(陰暦)、村尾嘉陵は石神井の弁財天に詣でようと、
椰子の実を水筒代わりに日の出くらいに家を出る。
最初に出てくる地名は椎名町慶徳屋。
椎名町慶徳屋が少し先に、岐路あり、北に行けば上板橋に出て、ここより西にゆけば、道の左右楢のうえなみて云々さて、慶徳屋の場所がわからないと足跡も辿れない。
ググってみる。あった。素晴らしい。
豊島区立郷土資料館だより「かたりべ」がPDF化されてWebに上がっており、そこに慶徳屋に関する寄稿があり、慶徳屋の場所も解明されてたのである。
慶徳屋は今の目白通り沿い。明治初期の地図を開き、慶徳屋の場所を特定。
本文の記述通り、慶徳屋先の道を北へ向かい川越街道の上板橋宿へつながる道もちゃん とある。
今の目白通り〜新青梅街道の元になった道もある。
椎名町よりこのあたり迄半里ばかり、道の左右みな畑なり、人家二三戸ばかり、往来はみな馬牽き、糞桶肩にするもののみ江古田に入ると豆腐屋があったので、そこで休憩しようと腰掛けると、お店のあるじがあれこれ世話をやいてくれたとあるが、さすがに豆腐屋の場所はわからん。田中屋長助だそうである。
地図によると江古田のあたりでぐっと北に回って川を渡ってるので、川を渡ったあたりかと思う。
さらに西に向かうと、山崎喜兵衛という醤油作りを商うものの家。
これは場所が特定できたので地図に記す。今の中野区郷土資料館の近く。
新青梅街道って聞くと、昭和になって作られた新しい街道のようで、確かにそうなのだけど、何もないところにぐわっと建設したのではなく、元になる道はちゃんとあったのだ。いつか旧道を辿ってみよう。
で、地図です。
江古田から先はもうほんとに畑ばかりのようで、
なお行けば鷺宮村、このあたりまれに民家二三戸あり、まひるにも路のふちの草むらに、虫の声聞こえるうちに……(東洋文庫版を意訳)という具合。
さらに進んで井草村、途中で道を北に折れると田んぼがあり、石橋で石神井川を渡る。
![]() |
| 新青梅街道旧道と旧早稲田通りの合流点に庚申塔が残っている |
橋を渡った突き当たりに禅定寺。これは現存する。
![]() |
| 禅定院 |
ぐるっとまわって北へ行くと、氷川神社。これも現存。
氷川神社西側の道を北へ行くと石神井公園であり三宝寺池である。
帰りは同じ道を通るのもつまらんってことで(その気持ちわかります)、
石神井川を渡ってさらに南下し、天沼、沼袋と抜けて淀橋と面影橋の間にある橋を渡るというから、おそらくは旧早稲田通りを道なりに南東から東に向かい、小滝橋で神田川をわたったんじゃないかと思う。
椎名町から江古田のあたりはあまり行かないので土地勘はないのだけど、なんとかなるもん、実際に歩いたルートがわかると、本文の記述も妙にリアルに感じられるから面白い。
興味ある方はこちらをどうぞ。
より大きな地図で 石神井の道くさ を表示
2013/05/11
村尾嘉陵「井の頭紀行」の足跡を辿る(「江戸近郊道しるべ」より)
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)より「井の頭紀行」。
文庫版で5ページ。東洋文庫版でも5ページ。
市谷御門から井の頭弁財天までの記述はたった3ページなるも、
その分描写がシンプルで、実際にどの道をどう歩いたか辿るのは思ったより大変。
必要なのは「東京時層地図」(あるいはその元となった明治前期の迅速測図)と
グーグルマップとぐーぐる。
文化13年(1816年)。以下は現代語訳ではなく東洋文庫版(一部、現代っぽく直してるけど)。
古道探偵ですな。
尾張殿御屋敷跡は今の自衛隊市谷駐屯地。 自性院は現存。三光院いなりは今の花園神社(花園神社のサイトによると俗称でそう呼ばれていたらしい)、成子通りはたぶん青梅街道のことだ。「中野より又左に折れて」は、青梅街道の鍋屋横丁の交差点。ここを鎌倉街道が通っていて古くからある道である。
鍋屋横丁の交差点を左折すると途中、妙法寺への道標が現存している。おそらくその妙法寺道を歩いたのだろう。そうするとだいたい上の記述通りになる。
こんな感じ。
さらに、
で、そこに八幡殿(源義家のこと)の鞍掛松伝承の記述、大宮八幡宮大門(表参道の大鳥居のことだろう)近辺の記述が加わる。
大宮八幡宮の裏門から出る。裏門がどこにあったのか明治初期の地図にはすでに載ってないのでよくわからないが、大宮八幡宮現況からすると南側の門となるか。今、大宮八幡宮の裏には大学があって抜けられないし。
すると、現人見街道につながる古道がある。これが「府中道」であろう。
途中、下高井戸村と上高井戸村の間に石地蔵があるというが、それがどのあたりをさすかはちょっと不明。環八の内側あたりか。
このあたりは自転車で何度も走ったけど石地蔵を見た記憶はないんだよな。
いつか杉並区の郷土資料館へ行ったら調べてみよう。
さらに現人見街道を西に向かう。
現人見街道は久我山村の南をまっすぐ抜けているが旧道は久我山駅の北側の細い道だ。
庚申塔の次の焼かれ道を右斜めにはいる。すると少し上り、線路を越えると右手に久我山稲荷神社がある。上の「右手は山にて」はこの久我山稲荷がある山を指してるのだろう。
そこから南に向かって神田川を渡り、少し上って玉川上水(玉川上水は尾根を通っているので)。当時の府中道(久我山道。今でいう人見街道)である。
玉川上水にかかっている石橋はなんと現存している。すごい。
人だけが渡れる。
嘉陵はここで橋は渡らす、玉川上水に沿って上流に向かう。
渡っても井の頭弁財天には行けたんだけどね。
玉川上水沿いに歩いて三つ目の橋を右折。
つまり井の頭弁財天への参道にはいったわけである。
あとは道なりにいくと、右手に黒い大きな門がある(今でもある)。
そこをくぐっていけば井の頭弁財天の南側の崖の上にでる。
石段が崩れていたらしいが、今はちゃんと歩いて降りられます。
わたしは自転車でそこまでいっちゃって、結局自転車をかついで階段を降りたけど。
以上。
井の頭弁財天や井の頭池、その由緒などに関する記述は省略。
まあ、
村尾嘉陵の記述と明治初期の地図と以前自転車で古道探索したときの記憶を元に、彼の足跡を辿ってみたという話でした。そうは間違ってないと思う。
詳しく知りたいという奇特な方はこちらをどうぞ。
文庫版で5ページ。東洋文庫版でも5ページ。
市谷御門から井の頭弁財天までの記述はたった3ページなるも、
その分描写がシンプルで、実際にどの道をどう歩いたか辿るのは思ったより大変。
必要なのは「東京時層地図」(あるいはその元となった明治前期の迅速測図)と
グーグルマップとぐーぐる。
文化13年(1816年)。以下は現代語訳ではなく東洋文庫版(一部、現代っぽく直してるけど)。
市谷御門を出、尾張殿御やしき前より自性院前通りを過ぎ、三光院いなり前よりゆきゆきて、左へ折れて成子通りへ出、中野より又左に折れて、堀の内妙法寺に参る……たったこれだけで市谷門から妙法寺までどう歩いたか探すのである。
古道探偵ですな。
尾張殿御屋敷跡は今の自衛隊市谷駐屯地。 自性院は現存。三光院いなりは今の花園神社(花園神社のサイトによると俗称でそう呼ばれていたらしい)、成子通りはたぶん青梅街道のことだ。「中野より又左に折れて」は、青梅街道の鍋屋横丁の交差点。ここを鎌倉街道が通っていて古くからある道である。
鍋屋横丁の交差点を左折すると途中、妙法寺への道標が現存している。おそらくその妙法寺道を歩いたのだろう。そうするとだいたい上の記述通りになる。
こんな感じ。
さらに、
それより寺門を出て、直に南に向って行けば少し小坂あり、下りて田あるところ左右ながめよし、ここに水磨ある家あり、林のおくに車の音聞こゆ、田の中道を行きはてて縄手をゆくこと少しにて、大宮の道の北側に出とある。妙法寺の門を出て南に向かい、鎌倉街道に合流して坂を下り、善福寺川を渡ると大宮八幡宮への参道に至る。それを指していると思う。
で、そこに八幡殿(源義家のこと)の鞍掛松伝承の記述、大宮八幡宮大門(表参道の大鳥居のことだろう)近辺の記述が加わる。
大宮八幡宮の裏門から出る。裏門がどこにあったのか明治初期の地図にはすでに載ってないのでよくわからないが、大宮八幡宮現況からすると南側の門となるか。今、大宮八幡宮の裏には大学があって抜けられないし。
……ここには参る人もなし、広前にぬかづきて、ここの裏門より出で、西に向かって行く。
道の北側は林の間に人家あり、南側はみな畑なり……
すると、現人見街道につながる古道がある。これが「府中道」であろう。
途中、下高井戸村と上高井戸村の間に石地蔵があるというが、それがどのあたりをさすかはちょっと不明。環八の内側あたりか。
このあたりは自転車で何度も走ったけど石地蔵を見た記憶はないんだよな。
いつか杉並区の郷土資料館へ行ったら調べてみよう。
さらに現人見街道を西に向かう。
久我山村、村の入口に岐路あり、庚申塚あり、ここより左に行て少し民家の間をゆきて、小坂を下れば、右手は山にて……田中の細道を南に向かって行けば、細き流れあり(神田川のこと。井の頭上水)、小橋を渡りてゆけば、少し高みにのぼる、のぼりはつれば上に玉川上水の掘り割りあり……石橋をわたす、……一部略したけど、村入口の庚申塚はたぶん現存する庚申塔のこと。この庚申塔には右が「いのかしらみち」と書いてあるのだが、嘉陵は村に入る方を選んだようだ。
現人見街道は久我山村の南をまっすぐ抜けているが旧道は久我山駅の北側の細い道だ。
庚申塔の次の焼かれ道を右斜めにはいる。すると少し上り、線路を越えると右手に久我山稲荷神社がある。上の「右手は山にて」はこの久我山稲荷がある山を指してるのだろう。
そこから南に向かって神田川を渡り、少し上って玉川上水(玉川上水は尾根を通っているので)。当時の府中道(久我山道。今でいう人見街道)である。
玉川上水にかかっている石橋はなんと現存している。すごい。
人だけが渡れる。
嘉陵はここで橋は渡らす、玉川上水に沿って上流に向かう。
渡っても井の頭弁財天には行けたんだけどね。
玉川上水沿いに歩いて三つ目の橋を右折。
つまり井の頭弁財天への参道にはいったわけである。
あとは道なりにいくと、右手に黒い大きな門がある(今でもある)。
そこをくぐっていけば井の頭弁財天の南側の崖の上にでる。
石段が崩れていたらしいが、今はちゃんと歩いて降りられます。
わたしは自転車でそこまでいっちゃって、結局自転車をかついで階段を降りたけど。
以上。
井の頭弁財天や井の頭池、その由緒などに関する記述は省略。
まあ、
村尾嘉陵の記述と明治初期の地図と以前自転車で古道探索したときの記憶を元に、彼の足跡を辿ってみたという話でした。そうは間違ってないと思う。
詳しく知りたいという奇特な方はこちらをどうぞ。
より大きな地図で 井の頭紀行 を表示
2013/05/10
「江戸近郊道しるべ」が届く
オリンパスの新製品発表会から帰宅し、
で、その現代語訳が出たのである。
ITMediaにPowershot Nのロードテスト的な記事を書いてメール。
箱から取り出して充電して撮ってみるまでって感じ。
突然ハワイに行けないかと打診がある。
行ってみたいが、残念ながら、今、パスポートが切れているのであった。
だめじゃん(泣)。
「江戸近郊道しるべ」ってのは村尾嘉陵って人が
1804年から34年(江戸時代後期)に三番町にある自宅から江戸近郊日帰り散歩をした記録である。葛飾北斎とかと同時代の人だ。
わかりやすくいえば、
古人が残した「江戸近郊お散歩日記」が後世になって本としてまとめられたもの。
もともとタイトルはなく、
その時々の編者が勝手につけていて、
平凡社東洋文庫版は「江戸近郊道しるべ」だが他の名がつくバージョンもある。
この東洋文庫版を電子書籍(eBook Japan)で持っていて、
→江戸近郊道しるべ:総合図書:村尾嘉陵 朝倉治彦 - 電子書籍・コミックはeBookJapan
→江戸近郊道しるべ:総合図書:村尾嘉陵 朝倉治彦 - 電子書籍・コミックはeBookJapan
ときどき読んでは「この人の散歩道を解明してみたいなあ」と思ってたのだ。
で、その現代語訳が出たのである。
江戸時代後期で、しかも今でいうブログみたいなもんなので
元の文章もそれなりに読みやすいのだが、
現代語だと読み間違えがなくなるし、ない知恵を絞らなくて済むので助かる。
とりあえず、「井の頭紀行」(江戸から井の頭弁財天を訪問するお散歩日記)で嘉陵があるいたルートをマッピングしてみた。
それは次のエントリーで。
それにしてもよく歩くもんである。
基本、日帰りで、
朝家を出て、だいたい目的地で夕方まで遊んで
夜暗くなってから帰宅する。
江戸時代の夜の道なんて街灯もなくて暗かろうに平気だったらしい。
月が出てきたからよく見えるとかいってる。すごい。
で、ひとつひとつの描写がシンプルなんだけど味があっていいのだ。
現代語訳が残念なのは、抄訳であること(全訳じゃないのでいくつか抜けてる)と
図版がけっこう省略されていること。
嘉陵手書きのアバウトな地図やスケッチが入ってないのははなはだ残念。
やっぱ原本(というか、平凡社東洋文庫版)は別途手元に欲しいところやね。
電子書籍でもいいけどあれこれいじくるなら紙の方がいい。どうしようかな。
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