先週末に、世田谷区八幡山のパワーラークス前で高い放射線が観測されたわけで、
どうもそれは敷地だか店の前の歩道だかの下に原因物質が埋まってるという話で、
じゃあ、昔、そこには何があったのか気になるわけである。
ちなみに今はこんな感じ。土嚢が積んであるあたり。テレビ局の中継車もある。
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食品館前の歩道は通行禁止で土嚢が積んであります。 |
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各局の中継車が狭い道をさらに狭くしておりました |
この道路、1970年代半ばに、希望ヶ丘団地の建設にともなって作られたもので、それ以前は道でも何でも無かった。
かつてのメイン道路は、ちょっと北を迂回する江戸時代に「滝坂道」と呼ばれてた古道だったのである。
昭和30年代前半の地図で見るとこんな感じ。
これは東京時層地図という優れたアプリで、明治から昭和の過去の地図データを呼び出してくれるのである。
高価だけど、古地図好きや古道好きや歴史好きは必須。わたしのバイブルみたいなもん。
→
東京時層地図
これを見ると「農協短大」と書いてある。まさにここである。
ここに東西にまっすぐな道路が作られたのだ。
ググってみると、正式には「協同組合短大」で、農業専門の短大だったようだ。
戦後に設立され、1970年代を待たずして終わってる。
詳しくはこちら→
Wikipedia「協同組合短大」
国土地理院のサイトへ行くと、古い航空写真が「国土変遷アーカイブ」として公開されている。
そこで1966年の航空写真を調べてみると、その短大の施設が映ってるのがわかる。
矢印のあたりがそうだ。校舎の南に運動場がみえる。
直接見たい方はこちらをどうぞ→
国土変遷アーカイブより1966年世田谷区
これが1975年の航空写真になると、すでに希望ヶ丘団地ができており(南側の巨大な団地群)、それにともなって道路の建設がなされており、短大の姿は跡形もない。
自分でいろんな航空写真を発掘して調べたい方はこちら→
国土変遷アーカイブ
どうやら、原因物質は、その短大に起因するんじゃないかといわれてる。
というかさ、土地の由来が気になったら、ネットだけでこうやって調べられる時代って面白いよね、と。
そういうことをいいたかったわけです。
で、ちなみに、昔の地図を見ると、この短大の南に、川と農地が広がってるのがわかると思う。
西に向かうべき旧滝坂道が北へ迂回してるのは、この川沿いの低地をさけて尾根道を通りたかったからだ。
その川が烏山川で、川と農地のあたりは当然ながら周りより低い土地なわけである。
その烏山川を暗渠化してその両側にどかんと建てたのが、1975年の航空写真でわかるように、希望ヶ丘団地。
……えっとえっと、「どこが丘やねん!」と。
そりゃあ武蔵野台地の上だから、東京低地に比べれば丘だけど、
短大の右下あたりの土地はかつて「葭根」と呼ばれてたくらいの湿地帯だったわけで、
大雨が降ると床下浸水が起きたりする土地であるわけで(数年前の大雨で、希望ヶ丘団地の向かいにあるコンビニが床下浸水してたのを見た)、
烏山側の南あたりはかつての「船橋村」で、その語源は、烏山川流域が湿地帯だったか巨大な池だったかで、そこをわたるために「舟橋」がかけられてた(船をつないで橋としてた)からだといわれてるような場所なわけで、
「希望ヶ丘」って地名を見て、ああ丘だから地盤がしっかりしてて災害に強いんだ、と思うとアレなわけである。
よく、地名を見るとその土地の由来がわかるというけれども、
昭和につけられた地名を信じちゃいけないよ、と。
地名自体は古いものでも区画整理で大きく変わってたりするしね。
有名なところでは「自由が丘」って、もともと自由が丘学園が作られた場所は台地の上で「丘」なんだけど、
自由が丘と呼ばれる地域はどんどん広がって、自由が丘駅は台地の下、川沿いの低地だったりするのだ。
地名をチェックするときは、明治や江戸までさかのぼること、ですな。
こういう話に興味を持った方は、
「東京古道散歩」や「古地図でめぐる東京歴史探訪」をぜひ
「東京古道散歩」には滝坂道の話もいくらかでてきます←宣伝してみた