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2025/01/03

0103:平漁港の法界塔の意味がわかった!

鞆の浦のはずれにある平港。小さな漁港であるが、そこの長い防波堤の脇、海中に「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑が立っている。

その碑に歌が刻まれているのだが、意味がよくわからない。




なぜ海中に建てられているのか、なぜ歌が刻まれていて詠み人が鞆の津の「何某」なのか。

何気なくFacebookに写真をアップしたら、

わたしの日本語の師匠である島田教授(二松学舎大学)が解読してくれた。

そこにある三十一文字の歌は、

船乗りに満潮時に座礁しないよう注意を促すもの。

この写真は干潮時だが、満潮時は色が変わっているところまで水没する。

だから、このあたりは水深が浅いので座礁しないよう目印に建てた

ということらしい。

すげーー。

なぜ海に立っているのかずっと疑問だったのだけど、

めっちゃ理解した。島田先生ありがとう。


2024/01/07

平安時代は苦手やった

平安時代について、記憶にある人物・事象のみをピックアップして時系列に並べてみた。

断片的に事件の名や人名は覚えていても、それが頭の中でちゃんと時系列になってなかったので。

0788:比叡山延暦寺の元となる山寺(0822:延暦寺となる)

0794:平安京遷都

0797:坂上田村麻呂、征夷大将軍に

0810:薬子の変

0866:応天門炎上

0899:高望王、臣籍降下し平高望となって上総国へ下向

0901:菅原道真、太宰府へ

0940:平将門の乱終結

0995:藤原道長、内覧の宣旨を受ける←このあたり清少納言・紫式部・安倍晴明など

1020:更級日記のはじまり(上総から京へ戻る日)

1056:前九年の役(-1062)。源頼義・義家

1083:後三年の役。源義家

1156:保元の乱

1159:平治の乱

とりあえず、戎光祥出版の「平安時代天皇列伝」をAmazonで注文する。


2022/01/02

0102:沼名前神社で初詣

朝の鞆の浦散策。

沼名前神社へ初詣に向かう途中、

ささやき橋を渡る。

ささやき橋に関しては日本伝承大鑑に詳しい。

応神天皇の時代、百済から王仁博士が来日した際、船が鞆の浦へ到着。

朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。(日本伝承大鑑 より)

で、夜な夜なふたりがささやきあう声が聞こえるようになったのでささやき橋となったのだそうな。

百済の王仁博士が来日した件については、日本書紀の応神天皇の項に書かれている。

鞆の浦の「鞆」の由来は、神功皇后が男装した際身につけていた「鞆」であるといい、

神功皇后の妹君を祀った淀媛神社もある。応神天皇はその神功皇后の子であり、のちに八幡神と習合され、八幡神社の祭神となった。

いつ頃生まれた話かはわからないが、神功皇后から応神天皇の流れに位置づけられる伝承のひとつなのだろう。

さらに足を伸ばし、寺町を経て沼名前神社で初詣。


沼名前神社は延喜式神名帳にある古社だが、その名にしたのは明治期。

もともと海の近くにあった渡守神社(航海の神で、神功皇后の妹君である淀姫が祭主をつとめていたという)と、現社地にあった祇園社(鞆の祇園と呼ばれていた)がひとつになったもの。渡守神社が沼名前神社に比定されている。

社殿は海を向いており、鞆の浦らしい古社である。

鞆の浦の伝承はとてつもなく古くまで遡れるのでそれがまた面白い。

鞆の浦散歩の記事、どっかで書かせてくれないかな。

妻の実家で昼飯を食い、近所で猫を撮らせてもらい、


その足で福山駅へ。

指定席は取ってなかったが、

福山から新大阪駅はJR西日本の「さくら」で無事着席でき、

新大阪からは新大阪発の「のぞみ」を狙って無事着席と

座って東京へ戻れたのであった。

帰宅して猫の世話をしたりなんやかやしてたら疲れてバタンと眠る。




2021/12/02

1202:麹町でハート型の鏃と出会う

とある案件で取材の日。

場所は四ッ谷駅ってことで久しぶりにJR四ッ谷駅に降りたら改札脇に「江戸城外堀史跡展示広場」コーナーが。テーマは「外堀と鉄道」。南北線市ヶ谷駅にも似たようなものがあったな、そういえば。

で、これが面白くてつい読みふけって遅刻しそうになる。やばい。



無事取材を終え、四ッ谷駅に戻る途中、ビルの隙間から寺院が見えたのでちょっと立ち寄る。

心法寺(1597年開基)。麹町の街道沿いの寺社って移転したり廃寺になったりで残ってないかと思いきや、ここだけはずっと同じ場所で生き延びているようで何より。

境内には彫りが深い18世紀の庚申塔も。

この庚申塔、よく見ると右手に持っている矢の鏃がハート型である。青面金剛型キューピット!



2021/03/05

0305:杉並風土記とGFX100sとせたpay

flick!の連載を書いて送る。

「日本の古本屋」という各古書店が連動した古書販売サイトがある。

ここ、非常に便利なのでよく使っている。

古地図などもう手に入らない資料が欲しい時、

・だいたいにしてプロが扱ってるのでヤフオクより状態がいい

・価格は固定だし注文してから発送までが早い。

・Apple Payで支払えるので楽。

なのである。

で、以前から欲しかった「杉並風土記」全巻セットが今日届いた。

「杉並風土記」は杉並郷土史叢書シリーズのひとつで、書いているのは森泰樹さん。発行は杉並郷土史会というNPO。杉並区の図書館で見かけて以来、欲しかったのだ。

すでに上巻だけは持っていたの中と下があればよかったのだが、

バラで買うより安いセットがあったのだ。

安かったのでどうかなと不安はあったが状態はすごく良く、

とりあえず、明日の古道散歩で歩くエリアをチェックする。

間に合って良かった。いくつか廃神社があり、それについて知りたかったのだ。

レビュー用のカメラが届く。富士フイルムのGFX100S。

ラージフォーマットセンサーながらコンパクトで軽くてボディ内手ブレ補正もついて1億画素で安い(といっても60万円だけど)。

スゴいカメラである。ただ、ここんとこ天候がイマイチなのだよなあ。それが残念。


上記写真、撮ったのは千歳船橋にある「オーランデ・ブー」という住宅地にあるビストロ。

ずっと電子マネーに未対応だったのだが、「せたpay」に対応したというのでランチにでかけたのだ。

支払時の操作としては、店舗のQRコードを読み取る式でPayPay


チャージ時に30%つくし、さらに3月18日までチャージ分を使って飲食店で支払うと20%が戻ってくるというわけで、世田谷区民はぜひ。まあチャージ時の30%は予算がなくなるまでという先着順なのでいつまでいけるかは不明だけど。
あとは、参加してる店舗がどこまで増えるかだなあ。電子マネーに消極的だった街の飲食店が参加してくれるとありがたい。


2020/04/26

0426:おんぼろ車を引きつづけた人生

昼間、近所をぶらぶらとカメラ持って作例撮り散歩。
夜、ITMediaにHuawei Mate30 Proのレビューを書く。

世田谷区宝性寺境内にある以前から気になってたレリーフ。


裏に回るとこう書かれていた。

「昭和三十三年八月入寺してから三十五年の長い歳月寺門興隆に専念した
 住職上田が夫婦で頑張り乗り越えた人生苦心の姿」

お墓さがし(https://ohaka-sagashi.net/property/10066-2/)によると
同山は室町時代末期武蔵国多摩郡船橋村(現在地)に草創されました。
文禄元年(1592年)徳川家康公の旗本山本与次左衛門政法(山本勘助従兄弟の二代目)が、多摩、荏原、都築三郡の内150石の菜地を与えられ船橋村に陣屋をかまえ、同時に、当寺を祈願寺として堂宇を建立し代々舟橋村の領主として、当寺を外護してきました。
しかし、六代政矩が甲府城内で刃傷におよび、享保15年(1730年)すべての領地を没収されてしまい、外護を失った当寺は、荒廃の一途を辿りました。
とある。
同じく世田谷区船橋には小さな「山本稲荷」がある。
そこに書かれている縁起には
甲州武士山本道照公初め武田信玄公に仕え後 文禄四年東照公の家臣となり正保年代武州船橋村外数ヶ村を知行所に給わりてより郷士鈴木半右衛門と議して船橋村に陣屋を構築し……(中略)……陣屋の鬼門除稲荷宮を創建す」
つまり、山本氏は文禄四年に旗本となって江戸時代前期の正保期に陣屋を構えたということになる。山本与次左衛門政法と山本道照は同一人物と見ていいんじゃないか。
まあいずれにせよその頃の話だ。

ただ
猫の足あと(https://tesshow.jp/setagaya/temple_funabashi_hosho.html)で引用されている「せたがや社寺と史跡」によると
開基については詳細は不明であるが、寛永年間と推察されるも、元禄年間の品々も若干残置しており、墓石あるいは元禄地蔵尊も残っている。天保年間より明治中頃まで頽廃のまま住職断絶して、隣接の東覚院の住職が兼務管理していた。たまたま明治19年東覚院火災の際、当宝性寺の古記録及び過去帳など一切焼失したので、的確な史実が判明していない
とある。
史実は不明。もうちょっと調べたいけど、図書館も郷土資料館も閉館中だからなあ。

門前にある元禄期の庚申塔。地蔵尊はこの向かい側に立っている

とりあえず天保年間より荒廃。

お墓さがし(https://ohaka-sagashi.net/property/10066-2/)に
昭和33年、先代御住職龍憲師が甲府の地より晋山し、当時40歳半ばにあった龍憲師のたゆまぬ復興への努力に、檀信徒家の信施を得て、現在の古刹というにふさわしい山容を整えるに至りました。
とあるので、それがレリーフに描かれた住職なのだろう。
もともと家康公の旗本だった甲府出身の山本氏が領主として陣屋を構え、祈願寺としたものという。
隣地には世田谷区船橋の鎮守である天祖神社がある。
明治期の神仏分離令によって宝性寺と分離したものだろう。


2020/03/26

「新しい原宿駅」「高輪ゲートウエイ駅無人AI店舗体験」「最後の東急東横店」の3本です

いかん、今のうちに行っておかねば、
ということで、記事用の写真を撮りに高輪ゲートウェイ駅へ。

・新しく凡庸な新しい原宿駅

新原宿駅を見たかったので千代田線で明治神宮前、そこでJRに乗換え。
旧駅舎はシャッターがしまっておりました。
「原宿駅」の文字がシルバーで光ってて読めないのはひどいな。
駅名より「SARUTAHIKO COFFEE」の方が読める。




改札にはいって中からホームを見る。


新しい旧明治神宮参拝用ホーム(外回り)にはすぐいけるけど、
従来のホームを使う内回りへはちょっとめんどくさい。

旧改札への通路は閉鎖されてた。

・開業後初の高輪ゲートウェイ駅

 開業以来初めて訪れる高輪ゲートウェイ駅。前回はメディア向けの内覧会だったからな。利用者は非常に少ない。まあそうだろな。平日の昼間だし、特に何かあるわけでもない。
 構内にある無人AIコンビニを使ってみたかったので挑戦する。
 撮影禁止だったので外からのみ。


 予想以上にちゃんと動いてた。中に入り、適当に欲しいものを手に取り、レジの前に行くと画面に手にしたもののリストが表示されるので、それでよければSuicaでタッチする。それだけである。
 簡単。
 これ、触るのは購入する商品だけで他人との接触も何もないので、新型コロナウイルス対策店舗としてもよさげ。


 あとは記事で使う写真を撮りながらブラブラと歩き回る。まあ、昔撮影したストックもあるので今回は必要なポイントのみ。写真はiPhoneで撮って出し。まあもちろん、別途カメラも持っていったけど。今日はEOS 6D Mark IIとNikon Z 50。










 なんか最近歩いてなかったからめちゃ疲れたわ。

・東急百貨店東横店の最後をみにいく

 帰りは渋谷で乗換え。玉川改札を出たとき、そうかまもなく東急東横店が閉店するじゃん、ってんで、ちょっと立ち寄る。


 週末か来週くらいにもう一度訪れたいけど、新型コロナウイルス禍があるからむずかしいかもなあ。
 最後の買い物は、特設会場でのてぬぐいと金平糖であった。

 東急東横店最後の1ヶ月が新型コロナウイルス禍にかぶってしまって、お客さんを呼ぼうにも積極的には呼びづらく、無念だったろうなと思う。
 今日も閉店間際にしては人少なかったものな。



2019/08/11

エンジンをかけなおしたいけどなかなか火が付かない月曜日

一度火を落とすと、また火を熾すのに時間がかかるタイプです。
というわけでいろいろやらねばと思いつつ、なかなか進まず、
とりあえず家電批評の短い原稿を書いてメール。

近所の寺の門前にある庚申塔が気になる。
何度も見ているのが、東京中にあるいろんな庚申塔を見た経験を踏まえてよく眺めるとなかなか珍しい。

元禄16年のもので、都内の庚申塔としては新しい方で、元禄期は都内各地(まあわたしが見てる範囲なので、江戸とその郊外)に庚申塔が多く建てられた時期。

これ、笠がのってて(ただ庚申塔と笠で石の感じが違うが気になるが)、
庚申塔自体の彫り方も他では見たことがないタイプ。


青面金剛の下に三猿が描かれているのだが三猿というよりは地下室に閉じこめられた子供のように見える。


一番下には願主(14人)の名が彫られている。
みな「名」だけで「名字」がない。

全員が同じ一族でわざわざ書く必要がなかったのか
名字を持たない農民だけで構成された講だったのか。
その辺はよくわからないのだけど。



2019/06/23

上野動物園でモノレールと五重塔と藤堂家墓所

上野動物園のモノレールは日本最古のモノレールにして、
動物園内のみ運行の短いものではあるが動物園遊戯施設ではなく
れっきとした東京都交通局による運営路線で正式には「上野懸垂線」であり、
都内唯一の懸垂式ではあるが、
2019年11月に運行を中止してしまう運命にあるのである。
で、モノレール好きの妻がぜひ乗りたいといっていたのだが
なかなか都合がつかず、
日曜日だけど行ってみるかってんで
根津駅から南下して不忍口から入場。

ぶらぶらと動物園を楽しみ、わたしは作例も撮り、
モノレールへ。



ラッキーなことに、一番後ろの席をゲット。
いやあ、モノレールは懸垂式に限りますな。

また平日にゆっくり乗りに来ようということで
東園。

まあ、上野動物園は動物がいっぱいいるのだが、
井の頭自然文化園や多摩動物公園の方が動物たちが健康的で元気そうな印象。
都会で来場者が多くて狭いってのはストレスなんだろか。

で、だな。
上野動物園には動物園に入らないと見られない史跡が2つある。

・江戸時代の五重塔

ひとつは上野東照宮の五重塔。
地図で見ると上野東照宮の参道脇にあるのだが、
敷地的には動物園の中なのだ。
だから間近で見るには動物園にはいらなきゃいけない。


この塔、
1631年に上野東照宮の一部として創建。
1639年に火事で焼けたもののすぐに再建。
その後、上野戦争でも消失せずに残った、江戸時代前期の五重塔なのだ。
(ちなみに、東京に現存する一番古い五重塔は池上本門寺にある)

で、東照宮(こっちは神社)のものながら、五重塔は仏教建築なので、明治期の神仏分離の際、寛永寺の管轄になり、昭和33年東京都に寄付され、上野動物園の敷地に取り込まれたということのようである。

・藤堂家墓地は動物園にあり

もうひとつ、今回はじめて知ったのだが、
動物園園内に動物園ガイドマップにも載ってない墓地があるのだ。
しかも非公開。


塀の上から覗き込むと、立派な宝篋印塔がずらりと並んでいる。
これ、藤堂高虎をはじめとする藤堂家の墓地。
藤堂高虎といえば上野の地に下屋敷を構え、
そこを寛永寺に提供した武将。
その後、藤堂家の菩提寺が寛永寺の別当寺である「寒松院」で、上野戦争で消失して上野公園の東側に移転したのだが、墓地だけが元々の場所に残り、
やがて上野動物園に取り込まれたのだが、非公開の墓地なのでガイドマップにも載ってないというわけ。

・上野の地名語源は?

上野はもともと忍ヶ岡といったが、藤堂高虎の伊賀上野の領地だったことから名づけられた説、がよく書かれているが、それは明確に間違い。

上野の地名は戦国期の北条所領役帳にも出てくるし、鎌倉時代末から南北朝期の文献にも「うへの」と書かれているそうで、それが今の上野を指すとすればその頃まで遡る。
おそらく「上野」がこのあたり全体の地名で、「忍岡」は上野台地につけられた名だったんじゃないかと思う。藤堂高虎の領地が伊賀上野だったのはまあ偶然ってことで。


帰宅して、トリセツにDC-G99のレビューを仕上げる。














2019/05/25

山王日枝神社にある謎の土塁?トンネル?祠?の謎

「まいまい東京」で訪れた赤坂の「日枝神社」(山王日枝神社。山王さま)だが、
以前からずーっと気になってるとこがあったのである。

で、調べてみたのでここにメモ。

明暦の大火後、松平忠房邸(深溝松平家。神社がここにきたころは、福知山藩藩主)があったこの地に遷座した。

今は赤坂駅からちょっと東へあるいて外堀通りを渡り、2000年に完成した巨大鳥居をくぐってエスカレーターに乗ればすぐだ。

これは「まいまい東京」の当日に配布したお散歩の友となる配布資料の一部。
こういうのがお好きな方、ぜひ、ご参加を。
で、右にあるのが
寛文10年(1670年)の地図。遷座した11年後だ。


その、
日枝神社、中央に回廊に囲まれた社殿があり、
その北側に山王稲荷などの摂社がある。

山王稲荷はもともとここに屋敷を持っていた松平家の屋敷神だったようだ。
気になるのはそのさらにその北側、
フェンスがあって立ち入れない空間に謎の土塁っぽい塁とトンネルと祠があるのだ。
「これ謎です」ですませるのも悔しいので
FBで尋ねてみた。
これが土塁っぽい盛りとトンネル。


これがトンネルの右手にある祠。


山王日枝神社は昔「星が岡」と呼ばれていて、
中世に「星が岡城」があり、その名残の土塁だという伝承があるようだが、
  調べても、星が岡城があったという古い資料が出てこない。
個人的には昔誰かが地形的にそうなんじゃないかといいだしただけで、
何の根拠もないんじゃないかなと思ってる。
まあ、砦をつくるにはよい場所だし、渋谷から江戸城を攻めるときに
一ツ木原(赤坂の一ツ木通りに名前が残る。四ッ谷から赤坂あたりの地名だったもよう)の合戦もあったわけで、
渋谷城から赤坂御所あたりを抜けて麹町へ至る古道を思うと
可能性はないことはないだろうけど。
ちょっとひっかかるので、城には触れないことにしてる。

それ以上に興味深かったのが古墳だった説。
東京を見てまわってたくさんの古墳を発見した鳥居龍蔵博士がこのあたりを巡検して古墳だといったそうで。
確かに、明治から戦前の地図を見ると、ちょうどこの位置に「2つの塚」が描かれてるのだ。
それが削られて一部だけが土塁のように残ったというのが正しいかも。



追記
鳥居龍造博士の記述を国立国会図書館デジタルコレクションで発見。
トンネルが穿ち、とあるので同じものをさしてるはずである。
「上代の東京と其周囲」








2019/05/17

等々力陸上競技場は東京と神奈川の旧府県境にたっていた!

そうそう、等々力陸上競技場の小ネタ。
等々力陸上競技場がある広大な公園は多摩川が作り出した低地で、
多摩川の旧流路跡なのである。
いつ流路がかわったのかは調べてないけど、
明治時代後期までは江戸時代の境界がそのまま残っていて、
旧流路が「府県境」だったのである。
(江戸時代に旧流路が境界だったということは、江戸時代のどこかで今の流路にかわったのですな)
だから、「等々力」という世田谷区側の地名が川崎市側に残っているのだ。

で、明治時代の府県境がついてる地図を重ねてみると、
こんなことに。

ちなみに赤い線はGPSログです。
「スーパー地形」より

つまり、
ホーム側自由席(フロンターレのゴール裏応援席)は
明治後期までの「東京府」、
アウェイ側自由席(アウェイチームのゴール裏応援席)は
明治時代から「神奈川県」
だったのである。
いやだからどうということはないけど、
これが「多摩川クラシコ」(川崎フロンターレvsFC東京)だったりすると、
旧東京府側に川崎、昔からの神奈川県側に東京のサポが陣取るという
ちょっと面白いことになるわけである。

これが逆だったら、
かつてスタジアム上にホームとアウェイの境界線があり、
東京側vs川崎側の境界ダービーという
面白いネタになってたかもしれない。


2019/02/12

葺城稲荷が地形ごと消えていて驚いた日

久しぶりに日経BP社へ取材されに行く。

そののち、神谷町から虎ノ門のあたりをぶらぶら歩く。
虎ノ門ヒルズを皮切りに、ヒルズな会社(森ビルだけど)を中心に
大再開発大会が行われててちょっと気になってたのだ。

まずは神谷町の「我善坊谷」としてその筋に知られる
西久保八幡のある山と仙石山(江戸時代仙石邸があった)にはさまれた
ちょっとした谷がある。

ここ、森ビル系の再開発の波が押し寄せ、谷地全体が買い取られ、
更地化が進んでいるのだ。

以前は建物にまぎれてわからなかった西久保八幡の山も
今は北側から丸見え。
地形がよくわかりますな。
この写真、奥に見えているこんもりした山の上に「西久保八幡神社」があり、
貝塚も発見されてる。
太田道灌がここに遷座したそうな。

で、上の写真をよく見ると、山の下に土色の物体が並んでる。
拡大すると「甕」のようにみえる。
(肉眼では全然わからなかった←視力に難があるもんで)
FBに写真を上げたら、
不発弾に見えるとか(をい)
中世の古銭がはいってた埋銭の壺じゃないかとか
いろんな節が出てきたけど
江戸時代に死体を埋葬していた甕棺説
が信憑性高いかなあ。
機会があったら尋ねてみたい←誰に?←港区郷土資料館?

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追記。東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスで発見。
大養寺跡で、棺甕、焼骨壺が出土してるらしい。これの一環?
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ちなみに場所はここ。西久保八幡の北側崖下。



さて我善坊谷を出て北上して虎ノ門へ。
そこらじゅう削平してビルを建ててて昔何があったさっぱりわからん始末だが
一箇所だけ「あれ?」ってとこがあった。
国道1号の1本裏の道沿い、
崖の上に小さな稲荷があったのだが、
それが崖ごとなくなってるのだ(上記地図参照)。
なんてこった。

それが葺城稲荷(ふきしろいなり)。
今は風景はこう。

で、福山通運のワゴンが止まってるそのむこうの電柱に注目。
2009年にはこの電柱のところがこうだったのだ。
よーくみると、プラザホームズの看板の上にあるパネルに「1396」って書いてあるプレートがあるので同じ電柱のはず。
2009年撮影

ここ、台地の端を削って道路が作られていてその上に葺城稲荷があったのだ。
階段を上るとこんなだった。
2009年撮影

2009年撮影

ああ、地形ごと全部削っちゃったのね。
このあたり元禄時代に代地替えを命じられて越してきた「家づくりの屋根の職人」が集まった街で「葺手町」と名づけられた場所。屋根を葺く人だから葺手なのですな。
で、この稲荷、そのときに町の人によって台地上にあるのを「発見された」神社なのだという。
もっと前からあって、祠だけが残っていたのだろう。
いやあわくわくする話ではないか。
当初はもうちょっと山の方にあり、その山は中世の城館があったという伝承が残っていて「城山」と呼ばれていた。
葺手町と城山で「葺城稲荷」となったんだろう。

なんか地形的にも周りとのギャップ的にもすごく風情のある一角だっただけに
丸ごと削られたのが悲しい。
ちなみに、今は西久保八幡神社に仮遷座されていて、ビルが完成したらまた戻ってくるそうだが、それならいっそ「地形ごと」残しといてくれればいいのにねえ
残念。

まあ稲荷があるから削られずに残っていたような場所だったわけだが
21世紀になると神社があっても構わず削ってしまうのですな。