「まいまい東京」で訪れた赤坂の「日枝神社」(山王日枝神社。山王さま)だが、
以前からずーっと気になってるとこがあったのである。
で、調べてみたのでここにメモ。
明暦の大火後、松平忠房邸(深溝松平家。神社がここにきたころは、福知山藩藩主)があったこの地に遷座した。
今は赤坂駅からちょっと東へあるいて外堀通りを渡り、2000年に完成した巨大鳥居をくぐってエスカレーターに乗ればすぐだ。
これは「まいまい東京」の当日に配布したお散歩の友となる配布資料の一部。
こういうのがお好きな方、ぜひ、ご参加を。
で、右にあるのが
寛文10年(1670年)の地図。遷座した11年後だ。
その、
日枝神社、中央に回廊に囲まれた社殿があり、
その北側に山王稲荷などの摂社がある。
山王稲荷はもともとここに屋敷を持っていた松平家の屋敷神だったようだ。
気になるのはそのさらにその北側、
フェンスがあって立ち入れない空間に謎の土塁っぽい塁とトンネルと祠があるのだ。
「これ謎です」ですませるのも悔しいので
FBで尋ねてみた。
これが土塁っぽい盛りとトンネル。
これがトンネルの右手にある祠。
山王日枝神社は昔「星が岡」と呼ばれていて、
中世に「星が岡城」があり、その名残の土塁だという伝承があるようだが、
調べても、星が岡城があったという古い資料が出てこない。
個人的には昔誰かが地形的にそうなんじゃないかといいだしただけで、
何の根拠もないんじゃないかなと思ってる。
まあ、砦をつくるにはよい場所だし、渋谷から江戸城を攻めるときに
一ツ木原(赤坂の一ツ木通りに名前が残る。四ッ谷から赤坂あたりの地名だったもよう)の合戦もあったわけで、
渋谷城から赤坂御所あたりを抜けて麹町へ至る古道を思うと
可能性はないことはないだろうけど。
ちょっとひっかかるので、城には触れないことにしてる。
それ以上に興味深かったのが古墳だった説。
東京を見てまわってたくさんの古墳を発見した鳥居龍蔵博士がこのあたりを巡検して古墳だといったそうで。
確かに、明治から戦前の地図を見ると、ちょうどこの位置に「2つの塚」が描かれてるのだ。
それが削られて一部だけが土塁のように残ったというのが正しいかも。
追記
鳥居龍造博士の記述を国立国会図書館デジタルコレクションで発見。
トンネルが穿ち、とあるので同じものをさしてるはずである。
「上代の東京と其周囲」
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