「東京古道散歩」を書いてて一番悩ましかったのが古代東海道のルート。
飛鳥山博物館でそれをまとめてくれた表があったので、掲載。
律令時代、最初に定められた東海道(初代東海道)は、相模国からそのまま東へ向かい、三浦半島の走水で海を渡って上総国(最初は安房国はなかった)。そのまま下総国→常陸国と最短距離で結んでた。
東京はスルーである。
武蔵国は東山道に属しており、上野国(群馬県)から南下して武蔵国府(府中市)に寄り道し、さらに北上して下野国(栃木県)に戻ってたわけだ。いかにも遠回りだが、実際、府中で「東山道武蔵路」の遺構が発掘されている。
初代の官道は、中央集権国家を目指す朝廷がその権力を利用して強引に整備させた道なので、各地域の実情を無視した、まっすぐで幅の広い道だったことがわかってる。
でも、まっすぐで幅の広い官道を維持管理するのは大変で、しかも国府同士を最短距離で結ぶため、実際に維持管理をする地元の人には便利じゃないという側面もあり、中央集権パワーが弱くなるにつれ、当初の道はうち捨てられ、幅はそんなに広くないしまっすぐでもないけど、地元の人たちにとって便利なように(つまり、多少遠回りにはなっても、大きな集落や郡衙の近くを通るように)少しずつルートが変わっていった。
それが上から2番目の図。
つまるところ、上野国からいちいち南下して武蔵国府を回るのはめちゃ遠回りでかなわん、と。
逆に、相模から房総半島へ行くのにいちいち海を渡るのは大変、と。潮の状態で渡れたり渡れなかったりするし。
じゃあ、相模国府からいったん武蔵国府へ出て、そのまま東へ向かって隅田川を渡り東京低地を下総国府へ向かった方が安全で便利じゃん。
東山道から下ってくる組も、また同じ道を戻るのはいやだから、いったん東に出て北上した方がよくない?
みたいになって……実際のところはしらんけど、当時の文献には、東山道利用者も東海道利用者も使うから混雑して大変みたいな話が出てるのだ。
まあ、初代の官道はとにかくまっすぐどーっと通したので、途中に立ち寄る場所もないし、食べ物や水に困ったときに困るし、多少遠回りでも、集落近くを通った方が地元の人も便利に使えるし。。。
そんな感じで、
768年、武蔵国府経由で下総国へ向かう道をみんな使うようになったから、そっちも公式のルートとして認めてくれ、みたいな話が奏上され、771年、武蔵国が東海道に編入されたのである。
このとき、武蔵国府から下総国府(千葉県市川市)へ向かうルートとして使われていた駅家(まあ、駅馬と呼ばれる乗り継ぎ用の馬を置いてる場所)が「乗瀦」と「豊島」なのだが、その場所がわかってない。
乗瀦については
A:「ノリヌマ」→「アマヌマ」ってことで、杉並区の天沼をそうだとする説と
B:「ノリヌマ」→「ネリマ」ってことで、練馬(西武練馬駅のあたり)をそうだとする説と、
C:「ノリヌマ」→「アマヌマ」→実は大田区馬込や中延にかつて「天沼」という小字があり、そこじゃないか説と、
どれなんでしょうねえ。
「豊島」については、たぶん豊島郡衙(豊島郡の郡役所所在地と思えばよし)が駅を兼ねていたのだろうということになってる。豊島郡があって豊島郡衙があるのに、豊島駅が別にあると話がややこしいから、それはなかろう、と。
そうすると、A説もB説も距離的にいい感じ(武蔵国府と豊島郡衙の中間あたりだし)になる。
ただ、上記C説をとると、武蔵国府→中延・馬込→豊島郡衙というルートは遠回りすぎてあり得ず、
C説をとるのだとしたら、豊島郡の駅家は郡衙とは別の場所にあったと考えた方がよさげ。
豊島郡衙の場所はわかってる。北区である。飛鳥山の少し東、地下鉄西ヶ原駅近くの御殿山遺跡。今、平塚神社があるあたりが東端。実際に発掘もされてる。
豊島郡衙が駅家だとすると、そこからどうやって下総国へ行ったのかがよくわからん。
いったん北方へ台地を降りて隅田川を船で下ったのか、東京低地の道を東へ向かったのか、台地沿いに東に西日暮里あたりで低地に降りて浅草の北あたりで渡河したのか。
とりあえず、隅田川を渡るための船が、利用者が多いため二艘から四艘に増やされたという記述は残ってる。
やがて、朝廷の中央集権パワーはますます弱体化し、東海道のルートもさらに都合良くかわっていく。
10世紀初頭に書かれた「延喜式」ではまたルートが違うのである。
今度は、武蔵国府をスルーして、相模国府から「店屋」(町田市)→小高(川崎市)→(多摩川)→大井→豊島→(隅田川)……と、相模国府から直接下総国府へ向かうルートが書かれているのだ。
その方が下総や上総、常陸国(今の茨城県ですな)から京へ最短距離で向かうには、武蔵国府に寄ってたら遠回りやし、ってことですな。
それが3番目の図。
「大井」は大井町の「大井」とされており、古代集落の遺構も出てる。小高からそのまま東へ向かうと大井の近くに出る。
ただ、そこから豊島郡衙へ向かうにはいったん真北へ向かってから東に90度ルートをかえることになって、かなり遠回りになる。これは違うんじゃないかと。
じゃあ平安時代後半の豊島駅はどこにあったのか。
大井から素直に北上すると、当時の地形や隅田川の渡河場所を考えるに、豊島駅は上野の台地か浅草の北あたり(石浜神社があるあたり)なのではないか、という説が出てくる。
つまり平安時代後半にはもう律令制も崩れかけてて、豊島郡衙も廃れてて(ついでにいえば、国府もその頃には最低限の役所的機能だけ残して、寂れていたらしい)、豊島駅自身が上野か浅草の方に移動したんじゃないかと。
「東京古道散歩」では、石浜あたりに豊島駅があったという説をとりあげたけど、上野という人もいる。
実のところ、まったくわかってない。
それがわかればまた律令時代の東京の様子が見えてきて楽しいんだがなあ。
どこにあったのだろう。
なお、飛鳥山博物館内で撮影するときは受付で撮影許可証をもらいます。そのとき、blogのurlを書けば、blogへの写真の公開もOkといってくれます。こういうのを明示してくれるのはとてもありがたい。
1 件のコメント:
My Dear Mr. Ogikubo Kei さん,
初めてコメントを差し上げます。
古代東海道のことを調べていて,あなたの記事に出逢いました。良い勉強をさせていただきました。
てらいや独断論の無いあなたの謙虚な語り口に好感を持ち,問題の難しさを私までが実感することができました。有り難うございました。
私は,荒川区在住の72歳の「隠居」です。河川が好きで,近くを自転車で走り回っていたのですが,次第に葛飾区に引き寄せられて,ついに古い川跡まで観て回るはめになりました。ここ2年間の話です。
何せ若い頃から地理・歴史音痴で過ごして来ましたので,勉強が大変です。皆さんのサイトを拝見しては,今いろいろ教わっています。
ごく最近,「立石道」のことを調べていて,ここが『古代東海道』の一部と知り,さらに綾瀬川・荒川・隅田川を越えて,南千住・三ノ輪・谷中・日暮里まで来ていると知って大変に驚きました。荒川区民としては,心穏やかではありません。
ここで一つ二つ質問させていただきます。
千住汐入から三ノ輪までの道筋が,中々見えて来ません。当時は,あの辺は大湿地帯でしたよね。「真直ぐな」街道は作れたのでしょうか。
795年創建の「飛鳥社」を経由すると,かなり曲がります。後年日光街道となるような道が既にあったのでしょうか。
地形図を見ると,三ノ輪から上野台地への道筋は,自然堤防上にあるようです。
ここで,私は大胆な仮説を立てています。
昔は,三ノ輪から王子の間には,台地沿いに例の「音無川」が通っていました。
それを側溝とする「街道」があっても良いのではないか。
「この堀川に沿って行けば,豊島駅に行けるよ」という目印なっていたのではないか?
また,途中上野台地に昇れば,谷中霊園はすぐですしね。
率直な御意見・御疑問をお聞かせください。
On February 5, 2013 Sincerely Yours,
摂田 寛二(Kanji Setsuda)拝
http://KanjiSetsuda.la.coocan.jp/
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