2022/06/30

0630:河越と川越の共通点

暑い。


川越の歴史とにらめっこしつつ構成を決める。

「古代入間郡の役所と道」「絵図で見る川越」「戦国時代の川越」など川越市博物館のあれこれが役立つ。

上戸・的場エリア(河越とする)と川越市街の対比が実に面白い。

ポイントは4つ。

詳細は6月21日の日記に書いたので写真などはそちらで。

○三芳野

 河越こそが平安時代の文献に出てくる三芳野の里である」と主張する。

 河越には三芳野塚(このあたり最大の古墳だったらしい)があったが、宅地造成で削平されて、今や旧地がどこなのか、案内板すら立ってないのがもったいなさすぎる。

○三芳野天神

 河越の三芳野天神。平安時代末期創建。かつては三芳野塚にあった。

 この天神、中世の頃ご神体を川越城にある三芳野神社に遷したが、神体が旧地へ戻りたがったため再び的場へ戻したという。

 川越城の三芳野神社はもともと素戔嗚を祀った神社で、天神はあとから合祀されたものなので、この話はありそう。

○日枝神社(山王宮)

 上戸日枝神社は平安時代末期に後白河法皇が、比叡山の日枝大社を京都に勧請して「新日吉宮」を創建。そこに河越氏が土地を寄進して荘園とし、新日吉山王宮を勧請した。
 その後、江戸氏がこの新日吉山王宮を江戸に勧請したのが今の赤坂日枝神社のルーツという。この話ははじめて聞いた。江戸氏と河越氏はどちらも良文流平氏という共通点はあるけど(初代河越氏と初代江戸氏が兄弟)はてさて。
 1362年の米良文書に「江戸山王宮」という文言があることから、その頃すでに日枝神社が江戸にあったことはわかってるけど、それが河越とは初耳。
 対して、喜多院にある日枝神社。こちらは江戸城を築いた太田道灌が江戸の鎮守として勧請し、それが赤坂日枝神社だという。
 赤坂日枝神社的には、江戸氏が勧請した山王宮があったところに太田道灌が再勧請したということになってる。

○河越館と川越城

 河越氏の居館跡は河越館。太田道灌が築城したのは川越城。
 じつは3.6kmほど離れてて、河越館は入間川の西側。川を挟んで低地、赤間川、その東に川越城。入間川は大きくU字にカーブしてるので川越城も入間川の西側になるのがややこしいのだが、それぞれ別のエリアだ。

 現地を自転車で走り回ってみて、なんかうちが本家三芳野だ、と競い合ってるような、川越が新たな中心はここだとばかりに三芳野のあれこれを持っていった(と、河越側が主張してるような)気がして面白いなあと思っていたら、川越市立博物館の博物館便りでそれに言及していることを教えてもらった。PDFファイルで公開されてる。


 なるほど。四神相応の地であることまで言及してるとはすごい。
 河越の伝統が川越に受け継がれた、的な結論でした。

 と、この話は「東京人」に書くスペースないので(与えられるテーマから外れるし)ここにまとめてみた。

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