2022年6月21日火曜日

0621:川越ならぬ河越の日

ちょいと取材で川越へ。といっても、川越城址のある川越じゃなくて、河越館のあった川越。ややこしい。

今の川越市中心部は川越城の城下町が中心だが、ここに城が築かれたのは室町時代半ばのこと。

平安〜鎌倉時代に河越氏が河越に居館を構えていたのだが、

それは川越から西、入間川を挟んだ反対側だったのだ。

河越館のあるエリアと川越城のエリアの間は低地でほぼ水田であり、ちょっと離れてる。


で、今回は河越館跡のある上戸や的場周辺を散策すべく、

霞ヶ関駅で降りて(まさか埼玉県に霞ヶ関駅があるとは!)ダイチャリ。



駅前に食べるとこないなあどうしようかなと広い道路に出ると(実はこれ古道)、ガスト発見。ロボットが働いてた。


まずは的場方面へ南下し、三芳野天神。

三芳野天神といえば川越城址にある三芳野神社のことだけど、

実はあそこはもともと天神ではなく、的場の三芳野天神を合祀したものだという。


面白い。

さらに南下して若宮八幡神社へ。この周辺の発掘調査で東山道武蔵路の駅が発見されたというけど、特に解説板などもなく、八幡にお詣りして終わり。


続いて、東山道武蔵路の名残っぽい位置の古道をちょっと北上し、

東へ向かって牛塚古墳。いくつかある古墳の中で生き残ってるうちのひとつ。

ここ、入口がわかりづらすぎ。


後半は上戸の日枝神社へ霞ヶ関駅の南の方、牛塚のちょっと北からまっすぐ延びる参道を走る。

この日枝神社が面白い。創建は平安時代で、東京の赤坂日枝神社のルーツはうちだと主張してるのだ。


たまらんですな。

概略としてはこう。

1:1160年に河越氏が新日吉神社に土地を寄進して日吉神社を勧請し、新日吉山王宮とした。

2:1362年に江戸氏がこの日枝神社(つまり新日吉山王宮)を江戸城に勧請した。それが赤坂日枝神社だ。

(神社によると、秩父平氏つながりということらしい。河越氏の祖と江戸氏の祖は系図によると兄弟にあたる)

3:室町時代になり、川越城と江戸城を築いた太田道灌が仙波の日枝神社(つまり山王)を江戸城に勧請。それが赤坂日枝神社だ。

で、東京ではどういう話になってるかというと、

太田道灌が勧請する以前の文献に「山王宮」があったのはわかってる(米良文書)ので、おそらくは江戸氏が勧請した山王があり、その後、太田道灌が川越の山王をあらたに勧請したのではないか。

である。それは知ってたけど、まさか江戸氏が勧請したという山王宮も河越からだったとは初耳。しかも1362年まで特定してる。1362年に江戸氏が江戸館を築いたって話はどこから出てきたのか。

で、どうも熊野那智大社に伝わる米良文書に「江戸郷山王宮」が見られ、それが貞治元年(1362年)のものなので、それが根拠かなと思う。

さらに、東へ向かうと、河越館跡史跡公園。平安末期から鎌倉時代の河越氏の館跡だ。

鎌倉幕府の御家人として活躍したり討たれたりしてる。

この史跡公園は予想以上に充実。

館跡にはそれぞれの施設に解説があり、空堀跡や道路跡も残されてるし、土塁も一部残っている。

ここは素晴らしい。



つまるところ、三芳野天神、上戸日枝神社、河越館跡があり、東山道武蔵路も通っており、入間郡衙もあったと推定され、「三芳野といえばここだ! 川越のルーツはうちだ!」と言ってるかのようで面白いのである。さてこれをいい感じにまとめねば←仕事です。

その後、南下して、川越市博物館の図録が「入間郡衙と足立郡衙を結ぶ伝路だったんじゃないか」という古道を東へ向かって川越市駅まで走り、ダイチャリを返却して東武線で帰宅。




河越と川越。両方抑えたいけど、ちょっと距離があるのだよなあ。自転車があればいいけど、電車だと二駅、川越市駅からだと一駅ではあるんだが。


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