2021/10/21

1021:鎌倉訪問の日

早起きして鎌倉へ行く。

鎌倉の古道を散歩。久しぶりに訪問したら駅がきれいになっててびっくり。

しかも平日なのに観光客が多くて、みんながマスクをしてる以外はすっかり日常が戻ってる。

今回の目的は2つ。

ひとつは今まで未訪問だった鶴岡八幡宮東の大蔵幕府跡や頼朝の墓、護良親王が幽閉された土牢エリア。

もうひとつは鎌倉歴史文化交流館で開催されている企画展「頼朝以前」。

鎌倉歴史文化交流館が16時までなので、15時には入りたい、ってことでスタートである。

歩いたルートはこんな感じ。明治前期の地図上にログを重ねてみた。

ほぼ古道を、それも鎌倉時代からあったと思われる道筋を歩いたのである。

鎌倉はすっかり観光客が戻っていたけど、こういう古道エリアは人も少なくて

史蹟も多くて(でもこじゃれたお店は少ない)良い。

駅を出たらまず若宮大路を南下。

下馬の交差点で左折し、滑川を渡る。この路が大町大路で、古代東海道と推定されてるらしい。古道だ。

途中、腹が減ったので昭和なパン屋で惣菜パンを2つばかり買う。安くて旨い。もっと買っとけばよかった。バタークリームのコロネとかたまらんかったわ。


そして次の交差点を右折。小町大路。

交差点が往古の繁華街でこのあたりを「辻町」という。

向かったのが元八幡宮。辻の薬師堂を超え、踏切を渡り、右折して元八幡宮である。


参拝したのち、小町大路を北上する。

大蔵幕府跡まで直行するつもりだあったが、興味深い古社古刹が並んでるのでなかなか目的地が遠い。

祇園山の麓にある八雲神社。


「廃仏毀釈」を読んだせいで由緒書をその視点で見ちゃう。

やはりもともとは「祇園天王社」。八雲神社に改称したのは明治時代だ。

新羅三郎義光が勧請したそうな。

後ろに山を背負った神社に相応しい地形である。

小町大路に戻って北上。

滑川を渡るクランクは昔のままだ。


さらに北上して日蓮上人辻説法の跡地へ。このあたり、日蓮宗の寺院が多いのも上人が幕府のある鎌倉でずっと辻説法を行っていたからだ。

さらに北上して北条邸跡。執権の北条氏はここに邸を構えていた。


今は後醍醐天皇が建立した宝戒寺。裏手の山に北条高時の腹切りやぐらがあるが今回は時間の都合上未訪問。

その近くに筋替橋。鎌倉十橋のひとつ。

街道から奥へ入って大蔵幕府跡。源頼朝時代の幕府があった場所だ。鎌倉幕府と一口で言っても2度ほど引っ越ししてるのである。幕府跡の碑は小学校の角にある。


その裏手の山に源頼朝の墓があり、白旗神社がある。まあこういう神社は明治期のもの。

階段を上ると頼朝の法華堂跡があり、江戸期に島津氏が建てた塔が残っている。


その隣の山には当時の執権北条泰時の法華堂があった。

発掘調査で分かった礎石や溝の跡が杭とロープで表してあるのだが、もうちょっとお金かけてあげようよ、鎌倉市、とは思う。これから整備するんだろか。

ここには古いやぐらがひとつ、さらに並列した階段の上にもやぐらが3つある。

でも、どれが誰の墓だか解説板がない。不親切すぎ。

えっと、法華堂と同じ面に無造作に残ってるやぐらは「三浦泰時一族の墓」(といわれてる)。

階段の上は左の2つが「島津忠久」「毛利季光」、右のひとつは「大江広元」の墓。


大江広元の墓は入れたので、中で撮影。iPhone 13 Proのナイトモードが強力でたまらん。

山を降りて次は荏柄天神社。

ここのかっぱ筆塚は漫画好き必見。たまらん。

さらに鎌倉宮。

鎌倉宮が作られたのは明治時代。その奥の少し高くなったところに護良親王(大塔宮)が幽閉され、殺されたという土牢が残っているのだ。それを祀るための神社であり、立派な参道もある(これはのちに作られたもの)。

なぜそこに土牢が、というと、当時は「東光寺」という寺の境内だったのだ。寺の土牢に幽閉されたのである(でも土牢ではなかったという説もあり、確かに新王を土牢に押し込めるってのは考えづらい)。

東光寺はとっくに廃寺となっており(詳細はよくわからない)、その場所に鎌倉宮が作られたのだろう。

鎌倉宮の参道を歩いて戻ろうかと思ったけど、明治前期の地図を見ると、それと平行するような東側の道の方が古いのでそっちを選ぶ。

帰宅して調べたところ、これは永福寺(今回はそこまでは足を伸ばさなかった)へ向かう「二階堂大路」ではないかというサイトを見つけた。確かにそれはありそう。

その古道を歩いて行くと、青面金剛像があり、道標になってる(何が書いてあるかはよく読めず)。

六浦路と二階堂路の追分(岐れ路)だったのだろう。

そこから鶴岡八幡宮に戻り、八幡宮の入口だけちょっと覗く。

池に弁財天がある。

あれ? 弁財天は仏教のものだから神仏分離時に祭神を変えて厳島神社になるか、廃されるかどっちかだったんじゃね、と思って由緒書を見たら、明治初年に境内にあった他の堂宇とともに除かれたが、昭和31年に再興されたと書いてあった。

新編相模風土記稿によると、弁財天を養和元年に東池に遷すとあったので、源氏と平家の2つの池を作ったときからあったのだろう。

つまり、鎌倉時代から鶴岡八幡宮に残る古社も神仏分離を建前に廃されてしまうのだから、初期の明治政府は何やってたんだか、である。

時間がないので本殿まではいかず、さらに西へ向かい、鉄の井を経由して、今小路へ。


寿福寺訪問もそこそこに(その裏にあるやぐらは以前訪れてたので割愛)

15時過ぎに古道を辿って無量寺谷にある鎌倉歴史文化交流館着。

鎌倉の歴史を概観するのにちょうどよい内容な上に、基本的に写真撮影自由なので、1時間ほどかけてゆっくりと楽しむ。

時代ごとの鎌倉の様子を見せてもらうと、鎌倉の中心が少しずつ動いてるのがわかって面白い。

鎌倉郡衙から大蔵幕府、北条氏、鎌倉公方とそれぞれ場所が違ってて、今の鎌倉を見ると鶴岡八幡宮が中心に見えるけど、違うのだ。

なぜそこに住んでたのかを地形や街道の問題と合わせて考えると実に興味深いのである。

図録を買う。

で、鎌倉駅に戻って帰宅。


充実した1日であった。



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