次号とか次々号とかのお仕事で。
その後、作例を撮りつつ、鎧橋から日本橋まで歩いて三越前駅から半蔵門線に。
明治初期、フランス式彩色図より。 |
中央区教育委員会によると平安時代の永承年間に源義家が奥州平定の途中……とあり、年代的に前九年の役がはじまる頃……、鎧が淵を渡ろうとしたとき暴風・逆浪にあい、鎧一両を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところといわれているが、
平将門が兜と鎧をおさめたところとも伝えられている……
つまりまあ、よくわかってないわけだが、
今は日本橋川なのだけど、
往古、このあたりがどうだったかといえば、今よりずっと海が内陸にはいっていて、鎧橋あたりは、ちょうど江戸前島と呼ばれていた半島の付け根あたりでそのすぐ西側は海が迫ってたのは間違いないところ。
江戸前島の付け根あたりを東西に横切る形になる日本橋川は
平川は日比谷入り江に流れ込んでいて、日比谷入り江を埋め立てて陸地にするため、人工的に流路を西向きに変えて隅田川河口に付け替えた
20130130修正
最新の見解では、平川は日比谷入り江に流れ込んでおり、神田橋以東の日本橋川は、江戸時代初頭に人工的に掘削して流路を西向きに変えたのが確定とのこと。
じゃあ鎧が淵はなんだったのか。もしこれの元となる史実があったのだとすれば、大河というよりは、江戸前島の西にあった海(往古、隅田川河口はもっと北にあった)が内陸に入り込んだ深い入り江だったのかも。
すぐ近くに兜神社があり、
そこの兜塚は義家が東国鎮護のために兜を奉納した塚だとか
(「江戸砂子」には義家じゃなく頼義とある。まあ、前九年の役の主役は頼義だったから、もしそうだとしたら、鎧が淵の話も義家じゃなくて頼義だろう)
平将門の兜と鎧を埋めたとかいわれてて、
鎧が淵と同じ伝承とみていい。
このあたり、徳川家康が江戸に入ってすぐおもいきし整備したのでそれ以前の名残はほとんどなく想像し放題という楽しさがある。
わたしが気になるのは、前九年の役の際、源頼義・義家はどのルートを通って東北へ向かったのか。
古代東海道はここのちょっと上流の常磐橋近くを通っていたという説があって、
だとしたら、
浅草橋にある銀杏岡八幡神社や蔵前のあたりにある鳥越神社、浅草の北にある今戸神社にも同時期の伝承が伝わってるので、
この近くを渡って浅草方面を抜けて北へ、ってルートもありうるかなと。
府中の大國魂神社や杉並の大宮八幡宮にも頼義・義家父子が欧州遠征の際に戦勝を祈願した伝承があって、
武蔵国府→大宮八幡というルートからこっちへ向かったか。
だがしかし、源頼義・義家の父子が勧請したり祈願したりしたという伝承を持つ神社は、23区の八幡神社系に限ってもざっと調べただけで山ほどあって、位置的にもこんなに散らばってるので
(下記地図の黄緑色のピンがそれ)
より大きな地図で 23区源氏系神社マップ を表示
何が何だかですな(笑)。
まあほとんどは、源氏伝承で由緒に箔をつけたかったか、あるいは源氏に従って鎮護に向かった地元武士の話が源氏伝承に転化したかどっちかだろうなと思います。
何はともあれ、日本橋着。
ここはドラマチックトーンが似合います。
帰宅して、ITMediaにNikon1 J3のレビューを書いてメール。
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