明るいうちにascii.jpの猫連載と請求書書きを済ませて
夜は新宿の住友ビルへ。
新潮講座「家康からさかのぼる「江戸・東京の下町」史」の日。
谷口先生の講義。これが面白いのだ。
今回は、源頼朝が武蔵国入りしたときの話。
それを吾妻鏡や保暦間記などの資料を元に読み解いていくのだ。
源頼朝が伊豆で蜂起したはいいものの、
石橋山合戦で敗れ、船で安房に渡り、
房総半島で仲間を増やしつつ武蔵国→府中→鎌倉入りするのは
有名な話だけれども、
じゃあ実際にどこをどう通って武蔵国に入ったか。
気になるじゃないか。
で、東京下町の学芸員谷口先生の出番である。
これがめちゃ面白い。
保暦間記には「須田・八切を渡って瀧ノ河原に」と書いてある。
八切は今の「矢切の渡し」。
この辺、からめきの瀬と呼ばれててとても浅いので
渡河に向いていたのだそうな。
もちろん歩いて渡ったのである。
須田は隅田宿のあたり。
木母寺や梅若塚のあったあたり。対岸は石浜。
ここは歩いて渡るのはムリなので、
各種文献によると、大量の船を繋いで橋にし、そこを渡ったという。
浮き橋である。
そしておそらくは低地を、三河島あたりを経由して王子入りした。
秩父平氏一族の中でいち早く頼朝側についたのが
豊島氏と葛西氏であり、
江戸氏や河越氏、畠山氏はギリギリまでぐだぐだしてた。
だから豊島氏の所領を通って王子へ入ったのではないか。
ざっくりいうとそういう話。
古道好き的にはたまらん大ネタである。
ふふふ。
で、そのあと飲みに行きたかったけど、何かと仕事がつまってるので
さっさと帰宅してあれこれお仕事の続き。
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