でも晴れたのでちょいと近所に作例撮り。
豪徳寺の仏殿前にある2つの灯籠。
デザイン的にもめちゃ古そうで、
いつのものか気になってたのだけど、肝心の所が剥落してて読めない。
かろうじて「丁巳」(ひのとみ)と干支はわかるのであるが
それだけではなあと。
初期の灯籠が残ってると読んだことがあるが、それがこの灯籠であるか自信がもてず。
ちょうどそこにボランティアのガイドさんがいたので尋ねてみると、
延宝5年、と即答。1677年。調べると確かに丁巳の年。
房総沖地震が起きた年だ。
1644年に井伊直孝が菩提寺として整備した寺で、その戒名が豪徳寺の名前の由来。
この灯籠の裏には井伊直孝の戒名が彫ってあり、
後ろの仏殿と一緒に作られたものらしい。
やはりこれであったかと納得。
ちなみに豪徳寺の前身は、1480年に世田谷城内に吉良政忠が結んだ、弘徳院という庵といわれてる。
勢いで吉良氏について調べ直しはじめる。
世田谷吉良氏については、将軍足利氏系の血筋ってことで、
奥州でくすぶってた吉良治家が14世紀に関東に呼ばれ(鎌倉公方から上野国に領地をもらった。このとき世田谷も領したといわれてるけど真偽不明)、
その後鎌倉公方の足利氏が幕府といさかいを起こして、
幕府がバックについた関東管領の上杉氏と戦いになり、
上杉氏が勝つと、ちゃっかり上杉側について
扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌と江戸城で仲良くしてるし、
その後、後北条氏が江戸に攻め込むと世田谷城もいったんとられちゃうが、
ちゃっかり後北条氏について重宝されてるし(将軍系の血筋なのがポイント高かったらしい)。
戦国武将のはずだけど、ほとんど戦ってません(笑)。
太田道灌と同時代の吉良成高に戦いに参加した記録があるくらい。
戦国時代まっただなかとは思えないですな。
まあそこは、キラだからってことで。
これ、5月の東京古道散歩講座のネタのひとつになります。
用賀から鎌倉街道(初期の大山道)を世田谷城に向かって歩く予定なので。
ふふふ。世田谷は地元なので面白くなると思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿