曇ってた。
昨日は晴れてたのにな。
まあしょうがない。
さてどこへ行こうかと考え、
池袋から江戸時代の古道を辿って雑司ヶ谷へ歩いてみることにした。
(当初の目的をすっかり忘れてます)
池袋と雑司ヶ谷の鬼子母神って実はすごく近い。
地図で見るとよくわかる。
面白いので、東京時層地図を元に、
明治初期、明治末期、現代の3つを並べて見た。
一番左は明治初期(13年くらい?)でまだ山手線がない時代。
池袋東口前あたりが「蟹が窪」と呼ばれた、
ちょっとした谷頭だったんだなあと思うと感慨深いですよ。
現代地図の黄色い道が「明治通り」なんだが、
当時はもちろんそんな道はないのである。
明治通りは別名「環状五号線」であり、新しい道なのだ。
でも、すべてが新しいわけじゃなく、古くからある道をうまくつないでる。
南池袋あたりでいうと、明治初期の「自高田村至板橋道」。高田から板橋へ至る道があったのだ。
今の明治通りを南下し、「東通り」を左折。この東通りが古い道なのである。
だからもちろんそこを歩く。というか、明治末期の地図を見ながら歩いてたんである。
やがて法明寺。
法明寺脇の路地を抜けて鬼子母神へ向かうのであるが、
法明寺裏手にある稲荷神社がとーーーーーーっても気になるのだ。
威光稲荷。
明治末期の地図をガン見すると法明寺からそのまま参道が延びていたようだが、
今は裏から回らなきゃいけない。
たぶん、明治の神仏分離のあおりかと思う。
で、細くてクランク状の曲がった参道を奥へ行くと、そこにあるのが威光稲荷堂。
OLYMPUS E-M1 |
平安時代、慈覚大師がこのあたりを訪れた際、
一条の光明を見て、それをどこか探したら、稲荷神が現れたというので
「威光稲荷」なのである。
だそうだ。
実はこの法明寺のすぐ東側を南北に鎌倉街道が通っていたのである。
鎌倉と奥州を結ぶ道のひとつであり、
平安時代にその道があった可能性は高く、
地形的にも弦巻川沿いのちょっとした高地で、
古くから寺社があっても不思議は無い立地であり、
鬼子母神一帯は雑司ヶ谷遺跡と呼ばれてて
平安時代や中世の遺物も出てるそうな。
で、その威光稲荷であるが、
その裏手に、ぽつんと塚があるのである。
OLYMPUS E-M1。威光稲荷堂から裏手の塚を見る。 |
円墳といっても信じてしまうような塚。
(明治末期の地図ではその塚がちゃんと描かれてた。上記比較地図の白い丸で囲った場所がそう!)
これがめちゃ気になるのである。
何の説明板も出てないので、法明寺に尋ねてみるか、
あるいは豊島区の郷土資料館で調べたら何か出てくるかもしれない。
ともあれ、こんな塚である。
THETAでどうぞ。
雑司ヶ谷の威光稲荷堂裏手にある塚が気になるのであった #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
今回の収穫ですな。
ついでに法明寺にある豊島氏の墓地を訪問。
本家は室町時代に太田道灌に攻め滅ぼされたので
別の筋ではあるが、秩父系平氏から続き、平安〜鎌倉時代に一世を風靡した豊島氏である。
OLYMPUS E-M1 |
そして鬼子母神を経由して
(鬼子母神にある江戸時代から続くお店の名物猫でも撮らせてもらおうと思ったら、
もう年寄りだから冬は家から出てこないのよ。ごはんのとき以外は寝てるの、
といわれたので諦める)
OLYMPUS E-M1 |
目白駅から帰宅。
もちろん猫はあそことかあそことかで撮らせていただいたので、
Panasonic FZ300 |
それとFZ300のフォーカスセレクトモードをネタに
猫連載を書いてメールして寝る。
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