2017/08/29

志村城址へ行ってきた

最近、老化が進んだのか、早寝早起き。
ITMediaにiPhoneカメラ講座の記事を書いてメール。
今回は、Makeup Plusネタ。
いやあ、ちょっと目を離した隙に
顔いじり系アプリのレベル上がってるわ。
中国すごい。

午後、思い立って志村へ。

次回の新潮講座で都内の城址の話をしようってんで
皆川会長から取り上げる城址のリストを貰ったんだが、
その中で志村城址だけ未訪問だったので行かねばってことで。

志村城址は中山道志村一里塚の近くにある。
最寄り駅は志村坂上(ちょっと歩くが、坂は上らなくていい)か
志村三丁目(距離的には一番近いが、急坂を上る必要がある。その方が地形は味わえる)。

でもわたしが降りたのはさらに離れた本蓮沼。

巣鴨から中山道旧道が蓮沼まで残ってるので、そっちは以前何度か歩いてるのだ。
東京古道散歩でもやったし。

で、今回は蓮沼から志村までを補完した上で志村城址へ向かおうと思った次第。
以前歩いたときのルート(赤線)と今日歩いたルート(青線)。
スーパー地形 for iPad + Skitch
本蓮沼駅を出て中山道を北上。
本蓮沼駅前のこの廃墟(だよね?)、ずいぶん前からこうなんだが
どうするんだろ。


と思いつつ、
すぐ右手に南蔵院と氷川神社。
どちらも、かつては荒川(今の荒川。当時は入間川下流)の近くにあったが、
洪水などの災害が多いため、江戸時代初期にここに移転してきたといわれてる。
まあ、街道沿いのいい場所に移ってきたか、幕府によって移転させられたか。
境内には出羽三山信仰を示す碑や庚申塔も多く残ってて面白い。



南蔵院すぐ北の東西の道は古道。板橋道。
東は赤羽の宝幢院前の道(今でも道標がある)につながっており、岩淵の渡しへ。
西は大きくカーブして南下しつつ、中野の城山方面から十貫坂、そして大宮八幡宮へつながる鎌倉街道……だと芳賀善次郎氏は推測していたけど、どうなんだか。
ただ、大宮八幡から中野に向かう古道の先を明治前期の地図や地形を見ながらそれっぽく伸ばしていくと、大宮八幡から東に伸びる鎌倉街道につながるのだよな。
その道は「東京古道散歩」を書くとき、
自転車で辿ったのでよく覚えてる。ときわ台周辺で道がいろいろと途切れて困ったけど。

さらに北上すると志村一里塚。
道路の両脇に一里塚がしっかり残ってる。
西ヶ原に残る岩槻街道の一里塚と双璧を為す一里塚なんだが、
志村のは……たぶん道路拡幅にともなって、どちらか片方は動かしてるよね。
調べないとわからんが。

ともあれ一里塚。
その横に古いお店が残ってる。
1933年の中山道拡張工事に伴って建てられたものだそうな。




一里塚を超えて北上すると、中山道が新道と旧道に分かれる。
今の国道17号はもちろん新道。武蔵野台地から荒川低地へ降りる河岸段丘の崖。
往古はくねくねとつづら折りながら降りていたが、今はそんなことやってらんないので
土木工事で切り通してどかんとまっすぐに走ってる。
その横に古い道筋が残ってるわけである。
右が今の中山道、左が中山道旧道。Y字路の股には交番。

旧道沿いには庚申塔や馬頭観音。
さらに、富士・山道と中山道の丁字路に道標が2つ現存。
たまらんですな。
電柱の向こうに道標兼庚申塔と道標が残っている。
ここもY字路で、建物左の道が富士・大山道。
大きな庚申塔に「富士山大山道」とあり、小さな道標には、ねりま・かわごえみち。

富士・大山道はこの先、練馬を通る富士街道につながってたか。

この道標を富士大山道方面へ向かうと、志村城址への近道。
(ただし、今は新道が途中で絡むのでややこしい)
でもわたしは中山道難所と言われた清水坂を歩きたかったので
つづら折りの坂を東京時層地図を見ながら下りる。

急斜面に張り出したマンションがいい感じ。

坂を下りると地下鉄の下をくぐる。

斜面から都営三田線が飛び出してくるのだ。
地形の妙である。

ここで中山道から離れて志村城址へ。

台地下の際を西へ向かうとやがて崖下の城山公園。
この上が熊野神社であり、城址であるからして
公園脇から坂を上って神社へ。


板橋から志村のこのあたり、氷川神社と熊野神社が多い。
氷川神社とは水運つながりか。熊野神社は豊島氏がらみか。
東京南部に八幡神社が多いのとめちゃ対照的である。



熊野神社境内には3つの板碑が。どれも室町から戦国時代のもの。
中世からの土地ってことが偲ばれる。
熊野神社社殿は古墳の上に建てられてるそうな。
社殿周辺には空堀跡の凹みが残っているが、
真夏の鬱蒼とした中ではちとわかりづらいか。
冬にくるとよさげ。


一の鳥居近くに城址の碑あり。

このあたり、かなり古い土地なのでもうちょっとあれこれ見てまわりたかったが
暑さにバテてきたので、富士大山道の旧道を志村坂上駅に向かい、
帰宅の途。

あらためてログをみると、
見事に舌状台地の端にあるのだなあ。
北は荒川(往古は入間川)が削った崖だし、南と西はその支流がけずった崖だ。
東は地続きで中山道へ。

気になったのは中山道の道筋はいつ作られたのか。
とりあえず志村のあたりは中世から道があったようである。
東京都遺跡データベースで、奈良〜中世の遺跡分布をみると、
赤羽に伸びる東西の道があり、そこから北へ向かう志村の道が
あったんじゃないかと思えてくる。
あれこれ想像するのが楽しいエリアだ。









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