2023/01/29

0129:高田馬場一帯を散歩する日

そろそろ次の東京古道散歩の配布資料を作らねばならない。

高田馬場跡から池袋へのルートは昨秋「まいまい東京」で歩いたルートなのでいいけれども、高田馬場駅から諏訪神社を抜けて高田馬場跡へというルートはずいぶん前に歩いたきりだったので、そっちをチェックしたくて出かける。

諏訪神社はもともと大国主命と事代主命を祀っていたところに徳川義直が諏訪大神(建御名方命)を勧請し、諏訪神社となった。なぜ義直かというと、そのみなみの戸山一帯が尾張徳川家の下屋敷になったからである。

諏訪神社は少し高台にあり北側に神田川の支流が流れていた。その支流を取り込んだ形で玄国寺があったが、明治以降に敷地が縮小されて、川の北側に墓地と地蔵尊、南側に寺と別れてしまった。

玄国寺に移築され、書院として使われている旧岩倉具視邸。

諏訪神社。空が広い!

その辺を確認しつつ歩き、北東に向かって斜めに通じる古道を通って高田馬場跡へ。

このルートは村尾嘉陵が八八幡詣でで歩いた道だ。彼は穴八幡から諏訪神社を経由して大宮八幡宮へ向かうのに多分この道を歩いてる。

もうちょっと足を伸ばして面影橋まで歩き、

そこより北は最近歩いてるので変わってるとこはないはず、と、

甘泉園へ向かい、水稲荷へ。

いい水が得られたという甘泉園の裏の高台に水稲荷が鎮座する……というのはいかにも神さまが祀られそうだし、崖を登って訪れてみると実に静かで緑に囲まれた古そうな場所だが、水稲荷がここへやってきたのは昭和38年のこと。早稲田大学が水稲荷があった場所に校舎を新築して校内を拡げたい、その代わり、早稲田大学が持っていた甘泉園の土地を水稲荷に譲渡する、てきなことがあったのである。


じゃあ水稲荷が来るまでその高台に神様は祀られていなかったのかというとさにあらず。江戸時代は三島山と呼ばれ、三島大神が祀られていたのである。今は水稲荷に合祀されてめだたなくなってるけど。

水稲荷本殿の裏には、戸塚の地名語源になったという「富塚」があり、これは古墳であり、いかにも古そうで昔からここにあったようだが、実は富塚も水稲荷と一緒に遷ってきたのだ。

水稲荷とともに遷された富塚古墳

これは富塚古墳の石室が流用されたといわれている。

いや、古墳はその場所にあることが大事なのでおいてこうよ、構内に古墳がある大学っていいじゃない、と思うのだけど、昭和38年のことなので当時の価値観的にはどうだったのかわからん。高度成長期の真っ只中、歴史的な云々は軽視されてた時代だったのだろうか。

じゃあ旧地に行ってみるかと穴八幡の方へ向かう。旧地は穴八幡から早稲田通りを挟んだ反対側にあったのだ。そこにあるのは知ってたけど、大学構内なのでなんか入りづらかったのである。

でも今日はもう大事な用件も終わったし、はいっちゃえということで小さな早稲田大学第3西門から入って奥へ向かうと、9号館の手前に小さくて四角い一角がある。

そこが富塚跡。富塚跡の碑が建っている。

この門の奥に富塚と水稲荷はあった

早稲田大学構内にある「富塚跡」の碑

もうちょっと歩くか、ってことで一陽来復の御守りを求めて行列してる人々を迂回し、戸山公園に入って蟹川暗渠を辿りつつ箱根山登頂。

戸山公園にある箱根山(築山)。

箱根山山頂から日没を眺む

そして、大久保通りに出て、都バスで新宿西口へ行くのであった。

帰宅後、ascii.jpに猫連載を書いてメール。

ITmediaにデジカメトレンドのコラムを書いてメール。

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