寝て起きてギリギリになって日本カメラの最後の原稿
450字のコラムをなんとか書いてメール。
夜、ノーベル物理学賞が発表される。
3人の日本人(あるいは2人の日本人と1人の日本出身の米国人)。
青色LED。
青色LEDができる前は「カラーLEDディスプレイ」といいながら赤と黄緑だけで「どこがカラーやねん」と突っ込みたくなるような電光掲示板ばかりで、
はじめて青色LEDが量産されて出回りはじめた頃はその青い光が新鮮で、
IT系のあらゆる機器がインジケータとして使うようになって
「青ばっかでまぶしいわ」となったのを思い出すですよ。
はじめて青色LEDを使ったフルカラーの「電光掲示板」を見たときは
衝撃だったもの。
それがほんの10年ほど前のことだからなあ。
中村修二氏に関しては、
青色LEDが誕生した頃から、
日経エレクトロニクス(これだけは20年以上定期購読してる)に頻繁に登場していて
すごく印象に残っている。
自分がいた会社「日亜化学」を訴えた人として今は有名な で、
この訴えたことに対して賛否両論あるわけだが、
現状の一点だけを見て批判するのもなんだかなと思う。
「今まで世話になった会社を辞めたのみならず、それを訴えて何100億円も要求した人」
的な。
わたしが当時彼に関する記事を読んで得た印象としては、
徳島大学を出て徳島の企業に就職して、
極めて典型的な日本人理系企業研究者としてやっていたところ、
青色LED関連で論文を発表し、
米国の学会に呼ばれて渡米して、
欧米の技術者・研究者と交流することで
自分が研究していた環境と学会にきた欧米の人たちの研究環境の違い(報酬を含む)をまのあたりにし、
「スレイブ中村」(企業の奴隷って意味ですな)と呼ばれたのが
とても衝撃で、
そこで自分の待遇について考えるようになり、
日本へ戻ったら
「徳島にある技術系中小企業の昔ながらの日本的な感覚と、渡米して感化された技術者の感覚のギャップ」がすごく大きなことを感じ、
米国の会社や大学から誘いをうけて
会社を辞めて米国に渡った人、
である。
たぶん、ですよ、
日本と、というより、徳島の自分がいた企業と米国の環境のギャップがあまりにでかかったんだろうなと。
特に当時のインタビュー記事で印象的だったのが
スレイブ中村と呼ばれたと語ってた話で、当人がそれを何度も語るくらい
自分が今までそれが当たり前と思っていた環境が、
実はまったく違っていた、という衝撃がでかかったのだ。
もうひとつ、中村氏は会社を辞めてすぐ訴えたわけじゃなくて、
米カリフォルニア大学に渡ってしばらくしてから
(先に日亜化学が中村氏を訴えたのだけど、その前に米Cree社が日亜化学を訴えようとしてたとかいろいろあって詳細は省略)
なわけで、その間に起きたことも考慮すべきだと思う。
だから、この話を日本全体に対する一般論にしちゃうのは無理があるかなと。
思う次第。
でも理系のエースはもっと待遇的にも恵まれていて欲しいという点では
理系出身者として同感です。
→中村裁判 - Tech-On!
→中村教授と日栄化学の悲劇
→中村氏 「多くの人に支えられ 夢が実現」 NHKニュース
→中村修二さん(フロントランナー)=05年2月26日:朝日新聞デジタル
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