フォトストリームもオフにしたまま
目の前の作業を先に片付けることにし、
日曜日に撮った写真をどかっと読み込みつつ、
いつから、ApertureをLightroomに切り替えようか悩みつつ、
富士山麓の古道について考える。
青い矢印が甲斐国府から東国へ向かう時の古代東海道甲斐路。
「地図で見る東日本の古代」参照。
赤い矢印が、「鎌倉往還」といわれている道。
矢印の向きを、古代東海道で甲斐国や相模国へ抜ける方向で揃えているのでややこしいが、鎌倉往還は足柄峠を越えて相模国の鎌倉へ通じていたということで。
今昔マップ for Webより、大正時代の地図 |
でも青い古代東海道甲斐路ルートは、急峻な峠をいくつも無駄に越えていて
道路としては使いづらい。少なくとも赤いルートなら、
明神峠→三国峠は避けられるし、水市駅から忍野村、忍野村から吉田への峠越えはない。
どうしてはじめから赤いルートではないのか。
そこで富士山噴火史を見てみる。
→富士五湖TV富士山噴火史
からの抜粋。
わかりやすいですな。
古代東海道は8世紀から10世紀に使われた官道。
記録に残るだけでもこの時期に富士山の噴火が集中してるのだ。
特に、延暦の大噴火(800-802年)では足柄路が火山灰で使えなくなり、
貞観の大噴火(864-866)で湖が埋まったとか小さくなったとか
大噴火が起きている。
上記古代東海道は「延喜式」と呼ばれる10世紀初頭の905年に書かれた文献によるものなので、当時は富士山から離れた山越えルートしかとりようがなかったんだろう。
山越えが好きだったわけじゃなくて、
当時、安定して道を拓ける土地がそこしかなかったのだ。
何度かの噴火を経て、河口湖や山中湖南側の土地が安定する。
上の表を見てもらうとわかるように、
11世紀から18世紀にかけては大きな噴火がなく、いろんな人が富士登山をしたという記録や伝承が残ってる。日蓮上人も吉田口から登ったという。
当初の吉田宿は下吉田(北側の小室浅間神社に近い方)にあり
徐々に富士山に近い上吉田方面に移り、
戦国時代に今のまっすぐ北口本宮富士浅間神社への参道を兼ねた道が拓かれた
のだ。
ふー。まあ詳しくは専門家に任せるとして、
これで自分の中で腑に落ちたのでよし。
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