烏山神社あたりがまた妙に古い歴史を抱えてて面白い。
世田谷城主の吉良頼高によって泉沢寺が作られたとか、
それが16世紀に焼失して、橘樹郡に移動して再建された(1549年。小杉御殿近くの中原街道沿いに現存する)とか。
旧甲州街道脇の地蔵尊。烏山神社への参道。暗渠は烏山川。石碑に由緒あり。 |
境内の片隅に「戦国時代に伊豆雲見城より当地に移り住んだ」高橋一族の守護神として三十番の神さまを勧請したが、それを昭和60年にそれぞれの本道にお帰り願い、御堂を撤去したという記念碑が建っているとか。
戦国時代にこのあたりに烏山砦が作られたって話があるとか。
元は白山権現社で、そこに別の場所にあった烏山村の氏神だった御嶽神社が合祀されて白山御嶽神社となり、昭和になって烏山神社と名前をかえたとか。
烏山神社。甲州街道側の鳥居。表参道は東側。 |
室町時代の関東地方はとにかくぐだぐだしててややこしいので整理してみよう。
室町時代の関東地方は、鎌倉幕府を受け継いだ感じで東国を支配する鎌倉府に鎌倉公方が置かれたんだけど、初代鎌倉公方である足利基氏がまだ若かったので、その補佐として執事をおき、それがのちの関東管領となった。
見るからに、あとで揉めそうな体制ですな。
このとき、足利基氏から招かれて奥州から関東にやってきたのが、吉良治家。世田谷領をあたえられ、初代世田谷吉良氏と呼ばれてる人だ。
吉良氏は足利氏の分家で、足利氏がとだえたら将軍を輩出することになってたくらいの家柄だったので、まあ、身内を東国の要所においておきたかったという感じか。関東においては、鎌倉公方、関東管領に続く3番目の地位だったとか。
それが14世紀の話。
実際に吉良氏が世田谷城を築いたのは、もうちょっと後のことだといわれてる。
関東管領はいつしか山内上杉家が世襲することになり、案の定、東国支配は足利vs上杉の様相を呈し始め、とうとう1438年、
第4代鎌倉公方の足利持氏との間で争いが起き、幕府は上杉氏側について、持氏は結局自害。
その息子もまたなんやかやで、鎌倉府は破棄され、古河に逃れ、古河公方と称することになり、利根川をはさんで、北東は足利氏(及び反上杉派)、南西は上杉氏でにらみ合って関東は真っ二つにわれたのである。
その争いで台頭してきたのがかの有名な太田道灌。
関東管領は山内上杉氏で、それを支えたのが分家の扇谷上杉氏。扇谷上杉氏の家臣が太田道灌で、古河公方側に対抗するために、川越城や江戸城を築城したのである。
両者は一応和睦するものの、今度は山内上杉家の家臣である長尾家の長尾景春が挙兵。
反上杉派の各武将も呼応してでかい戦いになるものの、太田道灌の大活躍でなんとか上杉氏が盛り返して決着。
その頃世田谷吉良氏はというと、古河公方側ではなく、上杉氏側について、太田道灌と一緒に戦ってたのだ。
とりあえず、江戸城にはいって指揮をしていたという記録があり、太田道灌には吉良殿様と呼ばれてたそうな。
でもその後、上杉氏内で内乱勃発。
15世紀末には伊勢氏(のちの北条氏。鎌倉時代の執権と区別するため、後北条氏、あるいは小田原北条氏と呼ばれる)が進出して小田原城を奪取、しまいには上杉氏を追い出し、とうとう関東を配下におさめちゃったのである。
その頃世田谷吉良氏はというと、成高から家督を継いだ頼康がちゃっかり北条氏の娘を嫁に迎えて、北条氏についてたのである。なんともうまく立ち回ってるというか。目黒区や大田区まで領地を拡大してたその頃が最盛期かも。
でも1569年に武田信玄が武蔵国に進撃したときは世田谷も通過されたらしい。
せっかく関東を得た小田原北条氏もその命は数10年と短く、1590年、小田原征伐にやってきた秀吉軍によって落城。北条氏についてた世田谷城も小田原城より前にあっさり開城(そのシーンが「へうげもの」にもあった)してる。
かくして、関東一帯(関八州)は徳川氏に与えられたのでした、と。
で、何の話だっけ。
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