西暦1507年鎮座と書いてある。1507年といえば、室町時代後期で関東が何かと戦乱に巻き込まれてた頃。太田道灌が1486年に殺されてるので、そのあとくらい。
その頃の世田谷は吉良氏が領しており、吉良成高(か、その息子の頼康)が世田谷城の城主だった頃かと思う。世田谷城からほど近いこのあたりが開拓された時期としては悪くない。
かつてこのあたりを経堂在家村といった。「経堂」と呼ばれる「堂」があって、その在家信者の村って意味のようだが、その堂がどこにあったのかどんな堂だったのかはわからん。今の経堂駅前にある福昌寺がそうかもしれないが、福昌寺は江戸時代初期の開基で、1507年とは100年ほどずれがあるし、天祖神社とは距離も離れすぎてる。
天祖神社が本当に1507年鎮座で、その頃経堂在家村ができたとすれば、経堂在家村は福昌寺や滝坂道(世田谷城に通じる古道。今のすずらん通りにつながるみち)近くではなく、その南を流れる烏山川沿いの低地に水田を構えた農村だったんじゃないか、てなところで登場するは「東京時層地図」なり。
グレーの線が今の小田急。駅の南にあるのが福昌寺。西にあるのが天祖神社で経堂在家村の村社だった。経堂駅の東を南東から北西へ向かっている道が「滝坂道」である。
この地図では烏山川の南に「経堂在家村」とある。今の経堂のイメージからずいぶん離れた場所だ。ちなみに、明治末期の地図では経堂駅あたりが経堂在家村とされている。
もともとの経堂はいったいどこにあったんだろう?
江戸時代の絵図を見てみよう。1805年に描かれた「目黒筋御城絵図」の経堂辺りである。
中央を斜めに流れているのが烏山川。「経堂在家」の上にある「神明」とある神社が今の「天祖神社」。天祖神社の右にある橋はたぶん「中村橋」。橋の名前からいって、村の中心に近い場所だろう。
確かに経堂在家村は烏山川より南に描いてある。ちなみに、「経堂在家」の左にある稲荷は、今の千歳船橋駅南にある「稲荷森稲荷神社」のこと。
で、「経堂」はいったいどこにあったんだ?
ほんとに経堂在家村ってこんな南だったの?
ああ、なんか気になるぅぅぅぅぅ。
追記:まあ、ほんとは烏山川の北だったとは思うけどね。
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