大国魂神社で開かれる府中商工祭にブースを出して地盤の話をしてくれるという。
面白そうだ、府中にはちょっと訪れてみたいとこもあったし、
ってことで電車ででかける。
(自転車で品川道を走って行きたいとこだけど、天候が崩れそうだったのでやめ)
ブースはどこかと探したら、
地層モノリスが展示してあった。これはわかりやすい。
立ち話をしてたら新潮社のY氏が偶然あらわれたので、
一緒にぶらぶらと国府周辺歴史散歩。
まず境内にある「府中市ふるさと歴史館」。
国府跡で発掘された遺物展示がいい。
特に土器。
全盛期と衰退期で発掘された土器のランクが違いすぎて泣けます。
平安時代の終わりにはもう国府は衰退してたのだ。
大国魂神社の由緒は神社による由来をここに書いてもしょうがないわけだが、
まあ現実的なところでは、
大昔から何か祀られていた聖なる場所であり、
その脇に8世紀半ば頃、武蔵国国衙が置かれ、
武蔵国の一宮から六宮までを勧請し、国の総社とした。
(だから六所宮ともいう)
当時は南に向いていたが(地形的には南向きである方が自然)、
国府が衰退し、神社が境内を広げていく過程で、
1051年、源頼義が北向きにあらためたという。
続いて、武蔵国衙跡を見学し、
大国魂神社を横断して西の鳥居から出る。
そこから南下して神社の裏手に回り、
金比羅神社と府中崖線の崖。
大国魂神社もやはり舌状台地の端に建ってたのだなあと実感する。
大国魂神社の裏にある金比羅神社。 |
府中崖線。お墓は崖下の妙光院のもの。 |
雨の中、坪宮へ。大国魂神社の摂社。
下河原線緑道の裏手、この前の道を鹿島坂という古道。
坪宮の祭神は「兄多毛比命(兄多気比命と書いてあったけど、同一人物だろう。えたもひのみこと)」。
この人、国府ができるずっと前、
初代武蔵国国造として伝えられてる出雲系の人物で(国造本紀)、氷川神社とも関連が深いといわれる。
この神社が大事で、
ここでは坪宮奉幣式、別名「国造代奉弊式」が行われる。 国造(国府ができる以前の支配者)に祭りの開始を伝えるという儀式で、小さい神社ながらも国府以前からの歴史があると言われている。(「古代・中世を基層に持つ府中・国分寺の場所の力に関する研究」より)というのである。
ちなみに、浅間山の麓にある「人見稲荷神社」の前身となる神社も「兄多毛比命」を祀っていて、氷川神社の御旅所だったという。
今日訪れた場所を明治14年の地図に書くとこんな感じ。
このときの地図は等高線もあって地形がわかるから面白い。
この地図を見ると、かつて大国魂神社は、甲州街道の南にある東西の道より南が境内だったんじゃないかと思える。
で、東が品川道(京所道とあるところ)、西が古代の甲州街道じゃないかと考えられてる。
詳しく書くと長くなるのでやんないけど、
このように古代まで遡れるのが府中の面白さなのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿