今日の日記は2回に分けてお送りいたします。
前半は歴史噺。
16時から喜多見の須賀神社境内で「第20回 喜多見庵夜噺」。
夜は調布市花火大会を観に行く予定なので自転車に三脚やら何やら積んで須賀神社へ。
あんな何もない場所でどうやって座学するんだろと思ったら、
境内の片隅にプレハブがあり、そこが会場になってるのであった。
前回参加して面白かったこともあり、その後Facebookで中の人ふたりばかりとつながったこともあり、今回のテーマはなんとしても要注目だったこともあり
前半だけ出席するつもりででかける。
テーマは「喜多見と江戸」。
世田谷区の喜多見……多摩川沿いの微高地……は古墳がたくさんあるくらい古くからの土地で、中世、「江戸城を太田道灌に明け渡した江戸氏が逃れてきて喜多見氏となった」といわれてる場所。江戸氏の墓所もある。
ちなみに、江戸氏は秩父流平氏のひとりで、
平安時代末期から室町時代半ばまで、
「江戸」を領した武将。江戸といっても、今の江戸城があるあたりから浅草方面。
秩父流平氏は「水運」を上手に牛耳ってたようで、
秩父氏は荒川上流。さらに畠山氏、川越氏ときて、荒川下流になると豊島氏、
さらに河口の一番おいしい場所、浅草湊や江戸湊あたりを江戸氏、
さらに浅草の対岸は葛西氏と、一族でおさえてたのだ。
その後、江戸重長が源頼朝に武蔵国のあれこれをまかされるに至り、
江戸氏一族は東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡したのだが、
室町時代の関東の内乱で太田道灌が台頭、
江戸氏は道灌に江戸を譲る形で
一族がいた喜多見に菩提寺(慶元寺)ごと引っ越してきたのである。
その後、世田谷城主となった吉良氏につかえ、
江戸時代には江戸氏から喜多見氏へ改名して、
喜多見藩藩主になるものの、1689年、一族がやらかしちゃったため廃絶となる。
一応、そういうことになってる。
で、まず地元の学芸員の寺田氏が喜多見陣屋遺跡の話。
陣屋ってのは、まあ城ほどではないけど、似たような領主の拠点みたいなものと思っていいかと。
喜多見は江戸時代初期の一時期「喜多見藩」ってのがあり、
その藩主が喜多見氏(江戸氏)なのだが、あれこれあって1689年に廃絶となり
喜多見藩もすぐなくなったので、その陣屋跡がわからなくなってたのだ。
江戸から引っ越してきた喜多見(当時は木田見氏)が館を構えた場所はどこか、という話なのだが、
洪水で流されたという伝説も残っており、
じゃあそれはどこだったかと、発掘調査した話である。
どうやら南半分を清水川、北半分を堀で囲った場所だったらしい。
寺田氏の話が面白いのは、わからんことはわからん、とぶっちゃけてくれることで、
実際、江戸氏の系図もかなりあやしいという話とか、
陶磁器の発掘でいつそこに人々がいたかが推定できるのだけど、
100年近く空白の時期があったのだがそれと洪水伝説の時期がずれてるとか。
喜多見陣屋遺跡で、鎌倉時代の常滑焼き(ちなみに品川湊でも発掘されてる)、
室町時代末期から戦国時代の瀬戸・美濃焼(へうげものの時代ですな。瀬戸ものが流行った時代。この頃、喜多見流茶道というのがあったそうな)が発掘されてるが、
室町初期から応仁の乱前までの100年ほど何も出てない空白期間があるのだ。
大学の先生とかはざっくりした歴史全体を捉えた話をしてくれるし、
地元の学芸員は地域に密着した実際の発掘を元にしたディテールの話をしてくれるし
地元の古老は体験からの推測を話してくれる。
その3つをつなぎ合わせていくとすごく興味深くまとめられる気がするのだけど
誰かやりませんかねえ。
古道好き的に今回注目すべきネタは2つ。
ひとつは喜多見中通遺跡で「クルリ鍵」が発掘されたこと。
これは将門記(平将門について書かれた文献)にある喜多見の倉が襲われて焼かれた(だっけ?)という話と一致するわけで、
将門の時代(平安時代中期)、喜多見にそういう施設があり、
その場所は、品川道のすぐ近くなので、
往古、品川道が喜多見を通っていたという傍証にもなるかと思う。
ただ、品川道(筏道)ではなく、中通り沿いだったとすれば
往古の品川道はそっちだったのかもしれない。
今度、寺田氏に聞いてみようと思う。
もうひとつは陣屋の範囲。陣屋の推定範囲の北西側に沿って登戸道があり、
このややこしいクランク状の道は、江戸氏が喜多見に来た頃(つまり室町時代)にできたと思ってよさそうなこと。
このあたり、面白いわ。
後半は千代田区の学芸員の方が、
江戸にいた頃の江戸氏の話をしてくれるのだが、
花火を観に行かねばならないため、それは断念して辞去。
うう。残念。
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