昨日朝まで仕事してたので
今日は昼過ぎに起きてこまかな修正(足りない図版を送るとか)やら
雑用やら何やらで終わる。
編集部からメール有り。
読者からの質問。
武蔵野合戦で新田勢に負けた尊氏勢が逃げ延びたという「石浜」は
隅田川沿いの石浜(浅草の北側。南千住の近く)といわれているが、
「石浜」を福生の多摩川沿いの牛浜に比定するという意見もある。
どちらだと思うか?
なんとも「東京古道散歩」のエリアから外れた質問なのだけど
面白そうなので調べてみる。
・石浜へ逃げたという元ネタは何か
→「太平記」
→太平記・国民文庫本・全巻
「太平記・石浜」でぐぐればPDFファイルにあたる。
・太平記には「石浜」としか書いてない。板東道を46里、とあるくらい。
そこで、地名から隅田川沿いの石浜と、多摩川沿いの牛浜の両方が比定されてる(定説としては前者っぽい)。
・武蔵野合戦は「鎌倉街道上道」ぞいに行われている。
鎌倉と群馬(上野国)を結ぶ道である。
対して、尊氏が敗走したという人見原・金井原はどちらも鎌倉街道上道から東に少しそれたところで、ある。鎌倉街道から東に戦線が移動(あるいは伸びた)状態で、敗走可能な方向は西か東か。多摩川の牛浜は西。隅田川の石浜は東。
これはやはり東方しかないんじゃなかろうか。
・多摩川の牛浜、隅田川の石浜。
多摩方面は武蔵七党が強く、立川あたりは武蔵七党の西党か。
隅田川方面は秩父系平氏の、江戸氏や葛西氏(葛西氏は南北朝の頃はもう奥州にいただんっけ?)、川を越えて千葉氏。
太平記には新田側に何氏が、尊氏側に何氏がついたかがごちゃごちゃと書かれている。
敗走するならもちろん味方についてくれる人がいる場所である。
江戸氏は尊氏側についてたようである。
・結論
ここはやはり隅田川の石浜でいいのではなかろうか
・追加調査
その結論でいいかどうかあれこれググってみると、福生市図書館のサイトに、福生市史がPDFで公開されてた。すばらしい。
→福生市史 | 福生デジタル | 福生市立図書館
これによると、「東方であるべき」で、石浜が尊氏側の江戸氏系の領地だったこと、千葉氏などと合流していることから、隅田川の石浜とみるのが妥当である、という結論に達してる。
というわけで、隅田川沿いの石浜でよいかと思う。
なんか太平記の現代語訳を丹念に読まなきゃだめかなと思ってたら、
ネットだけですんじゃったぞ。
なんていいつつ、KADOKAWAのビギナーズ・クラシックスは入門書としてお勧め。Kindle版もあるし。
[20150223:追記]鎌倉時代の一里は今の約650mくらい(6町)なので、46里は約29.9km。人見原と隅田川沿いの石浜は直線距離で約28kmなのでまあ距離的にもいい感じ。福生の石浜は約17km。
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