おかげで遅々として進んでなかった「中世東国の道と城館」を読了。
いや正確にいえば、興味ない章は飛ばしちゃったので読了とはいえんか。
一番読みたかったのは、江戸城周辺の話。最新の知見に彩られててすばらしい。
たとえば、太田道灌時代の江戸城について書かれた文献がいくつもあって、 そこに「高橋」という橋が出てくる。中世の古道を考える上で大事な橋で、それがどこにかかってたか。 通説では、今の常盤橋付近といわれるんだけど、常盤橋がかかってる日本橋川は江戸時代に掘られた人工河川で、 室町時代にそこに橋があったわけないだろと。
高橋がかかってた平川は江戸城の北側からぐぐっとまわって日比谷入り江に注ぎ込んでたわけで、 斉藤慎一氏は、もう少し上流、江戸城平河門の北、一橋あたりじゃないかという。
わたしはもうちょっと下流の、将門塚の近くじゃないかと思う。
たとえば、太田道灌時代(つまり室町時代)の江戸城の大手門(つまり正面玄関)は西側、今の半蔵門側にあったというのはよく知られているけど、 どこからそこに達していたか。
斉藤慎一氏は食い違い門(外堀通りの紀之国坂交差点からお濠を越えたあたり)を想定する。 江戸時代初期に作られた古い門だ。
門を入ると紀尾井町である。紀伊と尾張と井伊。紀伊と尾張は徳川家でで御三家のうちの2つ。井伊家は古くから徳川につかえてる譜代大名。 重要な場所なので信頼できる大名の屋敷を置いたのだ。
で、室町時代に江戸と小田原や鎌倉を結んでた道は、矢倉沢往還(今の国道246)で、 赤坂御所を抜けて食い違い門に達してた(そうすると、ほぼまっすぐな道になる)のではないかという。 おおなるほど。それはいい。 世田谷と江戸を結ぶ道として矢倉沢往還があったというのは考えてたけど、赤坂へまっすぐ向かうのは地形的に不自然で どうやって半蔵門方面へいってたのかと気になってたのだ。こう考えればありそうではないか。
高輪には扇谷上杉氏と小田原北条氏が戦った(高輪が原の戦い)という史実もあるし、 虎ノ門あたりには中世に遡る寺社も多いし、 桜田門は当初は「小田原門」と呼ばれてたくらいで、 こっちの中原街道ルートも使われてたはずなのだ。
たぶん、矢倉沢往還の元になった道と、中原街道の元になった道の2本があったんだと思う。
ひとつ気になるのが麹町=国府路町ではないか問題。
多くの人が、このことから、甲州街道にあたる道が昔国府路だったんじゃないかというのだが、個人的にはちょっと疑問で、
甲州街道沿いの伝承や古社古刹や歴史を見てみると、
中野より西に、手がかりがないのだ。
中野には、中野長者伝説や宝仙寺、太田道灌の城址など室町時代に遡る史実・伝承が転がってるが(どれも甲州街道じゃなく青梅街道に近いけど)、
それより西になると、
甲州街道沿いの古社古刹のほとんどは江戸時代の移転によるものだし、
街道の管理をさせるために集落ごと街道沿いに移転させられたというケースも多々ある(高井戸宿や国領などがそうだ)ほどで、
中世の時点で甲州街道があったと想定できるネタが足りない。
個人的には、府中と江戸を結んでた道ははのちの甲州街道ではなく、
滝坂道→人見街道、あるいは青梅街道→鍋屋横丁→大宮八幡宮→人見街道
だったんじゃないかと思ってたりする。
ああ、そういうこと考えてると面白い。
なんて過去に現実逃避してばかりもいられないので
夜はα6000のレビュー用作例やブツ撮り写真などを整理し、
さらに晋遊舎のデジカメムックの原稿を6ページ書く。
だがしかし、土日で書く予定だった原稿はまだたくさんあるのであった。 どうするんだ。 しょうがないので寝る。
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