デジタル化された「武蔵野国道案内」がアップされてると教えて貰い、
さっそくダウンロード。
これがなかなか面白い。
江戸中期ということ以外わかってないようだが、
確かに中期以降の地図である。
葛西がすでに下総国ではなく武蔵国になってるから。
朱色の線が道。丸いのが集落。黒い線は郡境。
上記地図だと、豊島郡と足立郡と葛飾郡である。
古道的に気になった点がいくつか。
まずは川越街道。
江戸時代の川越街道として知られているのは、
中山道から板橋宿の平尾宿と仲宿の間から枝分かれして
北東へ向かい、上板橋宿を経て川越へ向かうもの。
それが、この地図では、起点から中山道と異なるのだ。
神田川沿いに小日向、関口ときて、北上し、池袋、長崎を経て練馬へ向かっている。練馬から先は今知られている川越街道のようだ。
これが描かれた時代(江戸中期なので1700年代だろうが、元になった地図はもうちょっと古いかもしれない)の川越街道は、中山道から枝分かれする前であり、
だとしたら中世(太田道灌の時代)の川越道の道筋なのか?
と思うとちょっと胸アツ。
太田道灌の頃の川越街道はどこをどう通っていたかすげー気になってたのよ。
もうひとつ、岩槻街道が中山道から枝分かれしてる場所もおかしい。
駒込、西ヶ原を通って往時へ向かってたはずなのだ。
もしかして古くはこっちだったのか? あるいは地図がアバウトなだけなのか?
気になってしょうがない。
つづいて世田谷辺り。
今の246は江戸時代の大山道(矢倉沢往還)がベースになっている。
中世から江戸時代の初期は渋谷を抜けたあと、三軒茶屋から世田谷通りにはいり、世田谷の上町(ボロ市通り)を抜けて、南西に進路をかえて用賀へ向かっていた。
やがて、最短距離となる今のルート(三軒茶屋から用賀へまっすぐ向かう道)が開発された。
この武蔵野国道案内では古いルートのみが載っている。
まだ新道が開発されてないか、使われはじめたばかりの頃だろう。
気になるのが甲州街道から別れてシモキタを抜けて世田谷へ向かう道。
これ、なんだ?
それぞれ?aから?cまで記号をつけた。
「?a」は代々木あたりで別れて下北沢経由で若林へ至る。
もしこの図の通り、代々木から分かれる道とすると
代々木八幡脇から代々木上原方面へ抜けて三田用水に向かい、
そこからさらに森厳寺方面へ南下する道だ。この古道は現存する。
若林を抜けて世田谷へ向かう道も現存する。
ただ、下北沢や代田との位置関係がちょっと違う。
下北沢と代田の間で「?a」の道が「?b」と「?c」に分かれているが
こちらが正しいとすると、「?b」には世田谷から妙法寺へ向かう妙法寺道が該当する。
この道は今の環七に近い道だと思えばいい。
ただこの道だと甲州街道から南下する枝分かれが正しい。
あるいは玉川上水沿いの道をイメージしてるのか。
残るは「?c」の道筋である。
この場合、「上北沢」を通過しているように見える点をどう解釈するか。
この辺、縮尺がかなり詰まっていて細かな位置関係がおかしい点が多々みられるので、
実際には「上北沢」を通ってない、
と仮定する。
そうすると「?c」に該当する道が現存する。
いわゆる「羽根木道」だ。
環七から別れ、東松原駅前を抜け、豪徳寺駅前へ至る道である。
この道を南へ行くと豪徳寺と世田谷八幡宮の間の宮の坂へつながる。
これならおかしくない。
でも一番気になるのは、多くの道が省略される中、特に名のある街道でもないはずの「?a」から「?c」の道がここに描かれていることなのだ。
この地図が描かれた時点では重要な道だったのだろうか。
いずれにせよ、明治初期の地図と見比べながらこういうのを考えるのが楽しいのだ。
3 件のコメント:
『実際には「上北沢」を通ってない』と仮定されている点には、異議があります。その根拠は、「今昔マップon the web」(http://ktgis.net/kjmapw/)に拠る所の、1900年頃の地図です。
「?c」のルートを、私は次の通りかと推測しています。
まず「?b」との分岐は、緯度/経度:35.659252, 139.6677482の交差点(名称?の地蔵尊有り)。
上記分岐からほぼ西に進む→現「羽根木公園」の北側をかすめつつ→緯度/経度:35.663595, 139.641639→さらに現「日大文理」の南側をかすめて→緯度/経度:35.660775, 139.630821→緯度/経度:35.656398, 139.628454→緯度/経度:35.650853, 139.633111(現「子育地蔵尊」のある場所。ここで「世田谷町」からの道とT字路状に交叉)。
【追伸】
「?c」のルートが「武蔵国道案内」に掲載されている理由は、以下のリンク先資料に記載のごとく、江戸時代の上北澤村エリアが流行の観光地だったからだと推察されます。
http://www.sakuranamiki.org/pp/Exhibition%20Content%20in%20Culture%20Festival%202012.pdf
すなわち、当時の上北澤村の中心は、現「密蔵院」や「緑丘中学」を含む北澤川と烏山川に挟まれたエリアであること。そして上記資料によれば、上北澤村は“花の村”として評判になっており、密蔵院へのお参りと合わせての“北澤詣で”が流行していたようです。ちなみに、同じデジタルライブラリー蔵書の「東都郭外美知志留辺」には、「喜太郎庭 キリシマヨシ」(榎本喜太郎家の霧島ツツジのことでしょうね)との文言が「上北沢」の横に記載されています。
「武蔵国道案内」の地図が作製された時期と、上北澤村が流行の最盛期だった時期とは仮にずれていたしても、お薦め観光地として地図に取り込まれる要素は十分あったと想像できます。
@Nori Aoqi さん、面白いご意見ありがとうございます。
上北沢村の牡丹園が有名で江戸名所のひとつだったというのは聞いてましたが(というか同じ資料、読んでます)、上北沢村に遠回りするにしてもいい道が見つからなかったんですよねえ。
甲州街道から下高井戸あたりで分岐する道だとすれば、今の日大通りから勝利八幡のあたりを南下して上北沢村へ立ち寄って、そのまま南下して滝坂道、さらに南下して六郷田無道へ至り、そのまま世田谷新宿へ向かうルートも思いつきますが。
その辺り、実際に上北沢を通っていたとする方が面白いので、あれこれ考えてみます。
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