2013年6月5日水曜日

村尾嘉陵「阿佐谷村神明宮道の記」を辿る(「江戸近郊道しるべ」より)

村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」シリーズ第3弾。
業界筋では「嘉陵本」と言われてるっぽいんだけど
それはともかく、
この道、現代語訳版では略されてて残念。

東洋文庫版で3ページほどの小さなエントリーなのではずされたんだろう。

「阿佐谷村神明宮道の記」はいきなり、青梅街道からはじまる。

文政9年(1826年)10月(もちろん旧暦)。
堀の内村妙法寺へ行くべき道のところより、二丁ばかりも青梅の方へ街道をゆけば、→の右に石の榜示(この場合は道標ってことでいい)たてり、石神井村弁天道、谷原村東高野山道と刻む。
青梅街道から妙法寺へ行くには、鍋屋横丁の信号を南に折れるのが一般的。嘉陵もそのルートを以前にも使ってる。
でもそこから「二丁」(まあアバウト220mくらい)ばかり先へいったところに、ほどよい分かれ道はない。再度青梅街道沿いを走って確認しなきゃなあ。まあ、「二丁」という記述がどのくらいアバウトかによるのだけど、
どこであるにしろ、このあたりで右折してまっすぐ行くと、現早稲田通りにあたる。
旧早稲田通りは石神井村弁財天につながっているので、早稲田通りに出るにはこちら、ってな意味の道標だろう。
この手の道標は村の境に立ってることが多いので、中野村と高円寺村の境に相当する道かと思う。
なおそのさき少しばかりゆけば、又石の榜示あり、阿佐谷神明道とあり、そこより右に曲がりて、みちの左右楢の木たてる中を行くことしばらくにして、うちひらけたる田あるところに出(この間に民家1,2戸あり)、又そこを過ぎて、楢、くぬぎの中道を行けば、又田あり、左右のながめ前におなじ、なお行けば……(中略)、道の東の木立のおくに、小社あり……
江戸時代後期は楢やクヌギの雑木林、ときどき田んぼっての中に道があったのだ。
この道は現存する。道標が残ってるかどうかは記憶にないけど、環七のあたり。
今でもその道を北西へ行くと、右手に稲荷がある。馬橋稲荷である。
馬橋稲荷。2011年撮影。
嘉陵の当時は、神社名を掲げた額もなく、狐の絵が描かれた額を見ていなりなんだなとわかったというレベルだったそうな。
実のところ村の神社なんてそんな感じだったのだろう。
ゆき行程に、又田あり、向こうに見える木立の影に、萱ふける長屋門、軒端たかく作りなしたる家あり……(中略)……老たる女のありつるに、この屋にすむ人は何というぞと問えば、相沢喜兵衛といいて、村の名主をつとむるよしを答ふ……(中略)……神明宮はいづかたおと問えば、この屋の垣に沿って、後ろの方に行けば、鳥居たてるぞ、神明宮にてましますとおしゆ。
かくして相沢家の御屋敷前で老女に道を尋ねて無事到着。ちょうど屋敷の裏手に神社があったのだ。
明治の地図でみるとこんなルートである。


実はこの相沢喜兵衛宅、今でもある。もちろん建物や敷地は違うだろうけど。
阿佐谷神明宮あたりを自転車で散策した際、巨大な敷地を持つ「相沢」って御屋敷があって、すんげー気になってたのだ。
でもこれで判明した。少なくとも江戸時代には阿佐谷村の名主として広大な屋敷を持っていたのだ。それより昔は調べないとわからないけど、神明宮もその横の世尊院も相沢家が管理していたっぽいニュアンスで書かれている。

中央線阿佐ヶ谷駅があそこに作られたのも、名主の家が近いからかもしれないと陣内先生もおっしゃってた。
中央線ってほとんど人が住んでない農地に敷かれたのだけど(だからあんなにまっすぐに敷けたのだ)、阿佐ヶ谷駅だけは古道とまじわる場所にあるので気になってたのである。

ちなみに阿佐谷の谷は「桃園川による浅い谷」が語源といわれている。
神明宮は中世に遡る古社(日本武尊伝承もある)で、当初は御伊勢の森(現地から東北へ少しいった、早稲田通り沿い)にあったがここに移転したらしい。
脇にある世尊院は、中野にある宝仙寺の末寺。宝仙寺はもともと阿佐谷(今の阿佐ヶ谷駅南あたり)にあったが、室町時代(1429)、それが中野へ移転するに伴い、世尊院が創建されたのだという。
宝仙寺は源義家が不動明王像を安置するために開いたといわれてる。平安時代後期である。
混沌の屋形風呂: 石神井公園で雨に降られた日

さらに室町時代、江戸氏の一族が書かれた文書に「あさかやどの」とある。
それがこの阿佐谷で、中世は江戸氏系の阿佐谷氏が領していたもよう。

つまり、それほど古い場所であり、
鎌倉古道が通っていたのもうなずけるってもんだ。

阿佐ヶ谷は桃園川沿いに開けた古い集落だったのである。
南北に鎌倉古道が走り、北にある早稲田通りも実は古道で、これが豊島郡衙へつながってた道の名残じゃないかとわたしは思っております。
国府→乗瀦→豊嶋の道筋ですな。

さて嘉陵のルートは現代の地図だとこんな感じ。太い青の線がそう。
古道を探す上で「この道はいったいどのくらい古いんだろう」と思ったら、
武蔵野台地の場合は、地形をみるといい。
武蔵野台地は江戸時代に玉川上水など各種用水路が引かれるまでは農耕に向かず、
中世以前の集落は水が豊富な川沿いにしかなかったのだ(たぶん)。
そういう古い集落を結んでてなおかつ古い伝承を持つ寺社がある道は古道の可能性が高い。
たとえば「高円寺」も桃園川沿いにある。

座談会で陣内先生と阿佐ヶ谷の話をちょっとした記念で、久々に「江戸近郊道しるべ」ネタでした。

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