2012/05/09

古代の府中(武蔵国国府近辺)

天気も悪いし猫連載の準備をした意外はとくに何もしてない日なので府中の話の続きなぞ。
府中は律令時代に武蔵国国府が置かれた場所だけあって、いろんなものが地下に埋まってて、
今でもどんどん発見があって歴史好きにはたまらない場所なのだ。
というわけで、おおざっぱな古道地図を作って見た。

緑の線や枠は、府中市が配布するパンフレットをからの抜粋。
武蔵国国衙(まあ官庁があったところ)は大国魂神社を含む区域で、大国魂神社は国衙が廃れるに従って境内を広くしていったんじゃないかと思う。この神社はいわゆる「六所神社」で、国司が国内の一の宮から六の宮まで回るのがめんどくさくて、それを一カ所にまとめてすませたもの。

発掘の結果、国衙から武蔵国分寺へ抜ける道や、少し西を南北に通ってる東山道武蔵路(東山道から武蔵国府への連絡路)がわかってて、国衙の北側(旧甲州街道)に沿って道も見つかっているから、この道が東山道につながってたのだろう。
国衙から南への道(是政で多摩川を渡ると、今の川崎市や横浜市にあたる、橘樹郡や都築郡があるわけで、それら郡衙につながってた道だろう)もあったもよう。

赤い道は府中市のパンフレットには出てないけど、古道といわれてる道。

国府の西門からは古甲州道が出ており、途中で府中崖線を降りて西に向かう。
黄色い半透明の線がおおまかな府中崖線で、多摩川が削ったあと。
これを境にちょっとした高台になるわけで、国府は府中崖線の岬部分に作られたのだ。
いい場所を選んだもんだと思う。(当時の)多摩川も近いし、崖線沿いはわき水も豊富だし、多摩川が暴れても平気だしね。

高安寺は武蔵坊弁慶と関わりのある井戸があったという。
義経や弁慶が武蔵国府を経由して動いていたと思うとさもありなん。
古甲州道の一里塚跡が、NEC府中の敷地内に残っている。
古代の甲州道は五日市の方から大菩薩峠を越えて甲斐国国府(甲府ですな)へ向かってた。
今の国道20号に近いルートが開発されたのは江戸時代のこと。

国府の東門からは品川道が出ており、狛江を抜けて大井・品川へと通じていた。上の地図から東に少しはずれたところに、品川道の一里塚跡が残っている。
品川道は一部を除いて今でもけっこうたどれるのだが、古品川道はもっと府中崖線の近くを通ってたのだという。
古代→中世→江戸時代(甲州街道)と徐々に道が北にずれているのがおもしろい。

左下の水色の半透明は多摩川の古流路で、中世くらいまではこんな位置を流れていたといわれてる。
分倍河原の合戦跡が今の多摩川から北に離れているのも、流路自体がもっと北だったからと。

このあたりを南北に通っていたのが鎌倉街道。
北は上野国。南は鎌倉。
陣街道(鎌倉街道)沿いの木に埋まってる板碑。鎌倉時代末期のもの。
ただ、芳賀善次郎氏はその右の国府に向かってる赤い線がそれ以前の当初の鎌倉街道だったんじゃないかという。
でもまあこんな感じで多摩川を渡って関戸を通り、多摩丘陵を越えて小野路を越えて南下していくというルートが鎌倉街道のメインで、平安時代の古代東海道でもあったはず。

青い線は明治初期の地図に残っている、つまり、江戸時代の道。
東西を貫く甲州街道、南北を貫く府中街道、北東へ向かう小金井街道なんかがある。

府中近辺は府中宿のあった江戸時代より、その前の古墳時代から室町時代がおもしろい。

参考文献:
「発掘! ここまでわかった武蔵国府」ほか府中市によるパンフレット類
「旧鎌倉街道探索の旅」(芳賀善次郎)

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