2015/06/30

内藤新宿になる前の新宿

ちょいと新宿へ。
D600のセンサークリーニングをお願いついでに
週末の新潮講座に向けてちょいと気になってたスポットを散策。

旧青梅街道の標とか花園神社とか歌舞伎町弁財天とか
ビルに挟まれた花園神社。

花園神社に合祀された雷電稲荷なるも、元社地にも祠と鳥居は残ってる。

大村池跡地に残る弁財天。ここ、かつては大きな池があった低地なのだった。

旧青梅街道はここで線路を渡ってまっすぐ続いてた。

7月3日の大きなネタは「中世には甲州街道筋筋より青梅街道筋が先に発達してた」という話。
でも今日の収穫は花園神社の旧社地。

花園神社ってもともとは青梅街道沿いの「現伊勢丹」の地にあったんだが、
寛永の頃、そこが朝倉氏の下屋敷になってそこに取り込まれてしまったため、
陳情して、現社地へ遷座したんだという(花園神社の由緒書きによる)。
花園神社の場所って、神社ができるにしては湿地帯すぎてヘンだなと思ってたのだけど
これなら納得。

で、帰宅して寛永の頃(1642年頃)の地図をチェックしてみると、確かに、そこに朝倉氏の下屋敷があるのだ。
左の小さな枠が寛永江戸全図(之潮)の一部。朝倉と書いてあります。玉川上水以前の話。

史実かどうかはわからないけど、ありそうな話ではある。

個人的にはですね、
麹町が国府路町だったころ、
そこと国府(府中)を結んでいた道は、
今の甲州街道筋ではなく、青梅街道筋を中野から阿佐ヶ谷へヌケ、
途中で南西に方向を変えて人見街道につながってたんじゃないかと
思っております。

新宿というと「江戸時代は内藤新宿でした」で終わっちゃうけど、
内藤氏がそこにやってきてしばらくは「新宿はまだ設置されてない」わけで
玉川上水もまだ敷かれてないわけで、
内藤新宿以前の新宿を考えるのも楽しいわけですよ。




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