2015年9月12日土曜日

橘樹郡衙跡現地見学会で郡衙跡と古墳を楽しんだ日

今日の日記、1600まで分

街歩き仲間の友人から橘樹郡衙跡現地見学会があると教えて貰い、
東京スリバチ学会のフィールドワークではなくこちらを選択。
次回の東京古道散歩で橘樹郡衙跡もめぐるので
発掘した学芸員さんの話を聞いておきたくて。

で、8時50分くらいに出発。
うちから最短距離ってことで、用賀中町通りをまっすぐ南下し、
多摩堤通りにはいり、丸子橋を渡り、
ひたすら中原街道を走り、
9時40分に千年の交差点。
見学会は10時からなので余裕で間に合うなと思ったら、
そこから現地までがつらい。郡衙跡は台地上にあるからひたすら登りなのだ。
ああ、足がなまってるー。つらいー。
なんとか9時50分に到着したら……ちょうどはじまったとこだった。
はやいよ。

いやあ、思ったより多くの人が集まってるもんです。

にしても発掘した当人の説明は面白い。
今、郡衙跡として公園になっている場所は正倉院あと。
正倉院と郡庁はちょっと離れてるわけで、
郡庁はまだ見つかってない。今回は「館」(たち)ではないかという話。



ついでに古代東海道はどこを通っていたと思うか尋ねたら、
中原街道でしょう、と。
延喜式に書かれている小高駅も中原街道沿いのどこかではないかという話でありました。
さてさてほんとのところはどうなのか。

官道の道筋は時代によって変遷してるのでどの説も正解であるという可能性もあって
話はややこしい。

橘樹郡衙周辺は、縄文・弥生・古墳・律令時代と各時代の遺跡が重なってて
要するに、太古の昔から集落があった場所ということで、
郡衙近辺弥生時代の環濠集落跡が3つほど見つかっているそうな。
古墳との関係についても尋ねてみたら、
時期的に、馬絹古墳が橘樹郡をおさめていた地元豪族と関係あるのではないかということ。

ってことは馬絹古墳にいってみなければ。
よし、古墳めぐりだ。
というわけで、一緒にきた友人(ブロンプトン乗り)がこのあたりは詳しいというので
案内して貰い、
西福寺古墳、これはなかなか巨大だが、6世紀中頃から後半のものと推定。いい状態で残ってる。


法界塚古墳、こちらは周辺が削られててかろうじて残っているというありさま


そして馬絹古墳と回る。馬絹古墳は7世紀のものと推定。古墳時代の終わり頃。郡衙が置かれたのがだいたい7世紀末から8世紀あたりなので、たしかにあう。脇にある公園には古墳の解説もしっかり。


にしてもこのあたりの地形は凶悪で、
上り下りがはんぱない斜度。
やばかったす。
ついでに古墳の下にある馬絹神社。
もともと、主祭神がイザナミの女体神社。それが明治になってあれこれ合祀され、さらに昭和になって「馬絹神社」となったもよう。
馬絹神社拝殿。この裏の山の上に古墳がある。

千年松。由来について書いてある。
馬絹の語源となったといわれる松の名残も。馬といえば頼朝。頼朝が立ち寄った伝説が伝えられていたのでした。

宮崎台駅前で昼飯を食ったあと、
五所塚へ行こうという話になり、
これまた極悪な坂を上ってなんとか山頂の五所塚へ到着。
写真には3つだけど、ちゃんと5つの塚が並んでおりました。

中世ころの塚だそうです。隣には長尾神社。
ふー。今日はよく走った(主に上り坂を)。

多摩川に向かってぴゅうと気持ちよく駆け下りて
途中で分かれ、
わたしは登戸経由で帰宅。
走行ルートはこんな感じ。

五所塚のあたりがたぶん一番高かった。二子玉川と丸子の間に橋がひとつ欲しいよねえ。まあいずれ目黒通りの延長として作られる予定なんだけど。
多摩川を挟んだ東京側の古墳群はよく巡ったけど、川崎側は初訪問。多摩川を挟んだ両側の台地上に古墳群が形成されていたのだなと実感であります。




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