2015年9月7日月曜日

[鞆の浦]鞆の浦のさらに裏を散歩する朝。

朝、雨が上がってたので鞆の浦を2時間ほど散策。
観光ルートは無視して、
斜面の細い路地をカメラ持って散歩……ええ、これでも公道です。
もうすっかり覚えてしまい、
鞆を訪れたときの定番ルートと化してます。

今回は路地と民間信仰を中心に写真をば。

こういう斜面の狭い路地を歩くと

お地蔵様にあたり、
斜面の狭い道を上ると
お地蔵様が鎮座し、
斜面の狭い路地を下ると、
路傍の石仏に出会い、
という具合。

好きな人にはたまらんでしょう。

さて、上の写真、小さな山の上に神社がある。淀姫神社である。
神功皇后の妹である淀媛が祀られている。
(実際にそういう妹がいたかどうかはわからないが、鞆の浦は神功皇后伝承の宝庫なのだ。三韓征伐ののち、都へ戻る途中、鞆に立ち寄ったと地元ではいわれている。

淀姫神社は高台にあるので眺めがよいわけだが。
さらに社殿の奥に回り、岩の上に建つと、鞆の浦を一望できる。
足を滑らせて海に落ちない限り、絶景スポット。
こんな光景が見えるのだ。

湾をぐるっと回り、大可島を目指す。
ここ、今でこそ陸続きだが、江戸時代以前は単独の島で、
鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」では、二条が厳島神社へ向かう途中、
船で鞆に立ち寄っている。たいそう賑わっていたようである。
「そこここと漕ぎ進んで行くうちに、備後国、鞆という所に着いた。
 なんとなく賑やかな港とみえるが、たいか島といって離れた小島がある。遊女が世を遁れ庵を並べて住まっている所であった。」(「とはずがたり 全訳注」講談社学術文庫より現代語訳)
と描かれている。賑わっていたのである。離れた小島だったのである。
大可島城は1342年に築かれたと伝わってるそうで、(→備後・大可島城(城郭放浪記)
二条が立ち寄ったのが1302年であるから、その後、
立地の良さから城として使われるようになったのだろう。
南北朝時代には南朝方が篭もったが落城。

その後村上水軍一族の拠点として使われた。

対して、鞆城は戦国時代の1576年、
織田信長に追い払われた足利義昭の居城として毛利氏によって築かれた
のだそうな。

淀姫神社を下りて、湾沿いに大可島城址を目指す。
道ばたでは穴子を焼いて売っている。

山沿いの道に対し、海沿いの道は海に向いた祠や神社が多く残るわけで、
これなどは航海の無事を祈るものだろうし、
(今ではいつも近所のじいさんばあさんが煙草を吸いながらここでくつろいでる)

渡守神社跡は鳥居と碑だけ残るが、ここはかつて渡守神社があった場所で神功皇后伝承が残っている。詳細を語ると長くなるが、とても大事な場所である。

やがて街中に入ると、
路地のそこかしこに地蔵尊がある。これは旧家(残るホーロー看板をみるに、薬屋だったか)脇に隣接する子守地蔵尊。

ここから右におれ、大可島城址に向かう。
古い石の階段を上ると視界がぐっと開け、猫が現れる。
今は円通寺というお寺である。猫は基本である。

そろそろ戻ってこいとメッセージがはいったので
帰途につく。
飛行機の時間があるので遅刻するわけには行かないのだ。

帰りは福山駅まで車で送って貰い、
リムジンバスで広島空港へ。
そこからANAで羽田へ。
はじめての787なのでちょっとうれしい。

悪天候なので富士山は諦めてたが、
雲の上にちょろっと頭を出しててありがたや。
頭を雲の上に出し、とはこのことか。

羽田からはバスで新宿へ。
バス→飛行機→バスとシートベルトしっぱなしで疲れたけど、
いやあ確かに、首都高中央環状線のおかげでめちゃ速く到着。
まあ、トンネルばかりで地下鉄に乗ってるようではあったけど、
これはよいですな。


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