2015年3月13日金曜日

平間の渡しと矢口の渡し

朝、下丸子へ行き、
旧大森区と旧蒲田区の境界を辿る散歩をする。
カメラ持って。これも東京人のコラム用。

で、下丸子と鵜ノ木の境界散歩ついでに
池上・平間道をたどってみたのだが、
これがなかなか興味深いというか謎が謎呼ぶ感じ。

光明寺池やら新田神社の伝承やら地形図やらを見ると、
かつての多摩川は下丸子と鵜ノ木・矢口の間を流れていて、
新田神社の裏手に14世紀の矢口の渡しがあったのはたぶん間違いない。
新田義興は武蔵国のどこかから
嶺か池上あたりを抜けて矢口の渡しにたどりついたんだろう。

元禄までは下丸子は橘樹郡に属してたので、
元禄以前のどこかで多摩川の流路が変わったのだ、というのも間違いないだろう。

で、江戸時代、鵜ノ木から多摩川を渡るのに2つの道があった。
ひとつは「平間の渡し」に至る道。もう1本は「矢口の渡し」に至る道。

中世の矢口の渡しが新田神社のあたりだったとすると、
平間の渡しと距離が近すぎるし、
下丸子が橘樹郡側だったとすると、渡る先は平間じゃなく下丸子のはずなので、
当時は「矢口の渡だけ」だったんじゃないかと思ってるのである。

(追記:矢口は多摩川左岸側の、平間は多摩川右岸側の地名なので、同じ渡しをそれぞれの集落で違う名前で呼んだという可能性はある)

平間道を歩いて下丸子の六所神社へ行くと、1234年勧請だという。


創祀者が、荏原義宗。
この人、当時の「荏原郡の地頭」だった。
当時、下丸子は多摩川の向こうだったとすると、
荏原郡の地頭が、川向こうの、橘樹郡に属してた下丸子村に神社を勧請するだろか。

平間の渡しへの道にある地蔵尊・道標脇の解説板には
中世の鎌倉街道がこちらだったと書いてある。

だったら、鵜ノ木から下丸子へ向かうのに多摩川を渡らねばならないが、
そこに渡しがあったという話は聞かない。

さてどういうわけだろう。

もし新田義興に関する伝承も、六所神社を勧請したのが荏原氏だったというのも生かすとするなら、
当時、下丸子は多摩川の中州だった、と考えるしかない。
そうすると、矢口の渡し(旧流路を渡る渡し)と平間の渡し(現流路を渡る渡し)の
2つを使って対岸へ渡ることになる。うーむ。それなら渡しがひとつですむとこを使うよなあ。
あるいは、2つに分かれていたからひとつひとつの水深が浅くて渡りやすかったとか?

多摩川は1590年の洪水でほぼ今の流路になったといわれてるが、
(→古代の歴史年表 | 京浜河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局)
それ以前の流路はちょいと想像するしかない。

にしても、
平間道が中世の鎌倉街道であり平間の渡しを通っていたという話と、
新田義興が新田神社裏手あたりの渡しで謀殺された&多摩川の旧流路は光明寺池から新田神社裏のルートだったという話って
微妙に矛盾するところがあるんだけど、
みんな(ってだれだよ)は気にならないんだろうか。
それともわたしが重大な何かを見落としてるんだろか。
橘樹郡側の歴史も調べてみないといかんですかそうですか。

ともあれ、いろいろと大田区を歩き回ってたら13時になったので、
次の待ち合わせ場所へ向かうべく、
蓮沼駅から五反田へ向かう。


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