2013/08/14

橘樹郡衙跡へ自転車散歩

家電批評の原稿をちょっと書いて今日の仕事は終わり。
そそくさと準備をし、久しぶりに自転車で遠出としゃれこむ……ってそんな悠長な気候ではないんだけど、まあ、このくらいならなんとか走れるでしょう。

今回は特に作例が必要なカメラもないので(いや届いてないというのが正しいが)
純粋に趣味で目的地を決める。
それは「橘樹郡衙跡」。

・郡衙とは

ちょっと予備知識。
律令時代、今の東京は「武蔵国」の一部だった。
武蔵国は非常にデカくて、今でいう「東京都、埼玉県、神奈川県の一部(川崎市全域と横浜市の多く)」を包含してたのだ。
だいたい「境川」が武蔵国と相模国の境界線(だから境川)。

当時の国は、いくつもの「郡」に分かれてた。
東京は「多摩郡、荏原郡、豊島郡と足立郡の一部」に相当する。
で、荏原郡と多摩川を挟んだ反対側、つまり今の「川崎市」に相当するのが「橘樹郡」(これで「たちばなぐん」と読む)だったわけである。

各郡には「郡衙」と呼ばれる「郡の官庁街」があった。まあ市役所みたいなもん。
多摩郡の郡衙はおそらく府中にあったし、豊島郡の郡衙は平塚神社のあたりにあったことがわかってる。
荏原郡の郡衙はそれとおぼしき遺構が発掘されてないのでわかってない。
橘樹郡の郡衙は、最近発掘でほぼ確定された。
高津区千年。影向寺のあたりだ。
丸子橋をわたって中原街道をずっと西へ進むと、千年交差点あたりから多摩丘陵にさしかかる。その多摩丘陵の上である。

影向寺は何度は訪れてるけど、橘樹郡衙跡はまだ未見だったので是非行きたいと1年くらい前から思ってたのである。

・寄り道癖が悪い方に出て中原街道へ

うちから影向寺へ行くには、用賀から用賀中町通りを南下して等々力渓谷脇を多摩川に向かって下り、丸子川沿いに丸子橋まで走るのが一番早いんだけど、
何を思ったか、ちょっと早めに中原街道に出てさくら坂を下ろうと考え、
環八を左折して田園調布方面へ。
実は瀬田から田園調布方面の環八って往古の道にほぼ一致したり平行したりしてるのだ。
で、環八は田園調布で大きく右に曲がって羽田へと続くのだけど、
往古の道は左に入ってまっすぐ中原街道の石川台交差点方面へ行く。
この道、往古の品川道(府中と品川を結ぶ道)じゃないかと思ってる。
中原街道を左折して洗足池のちょっと北を右に入るときれいに品川へ向かうからだ。


中原街道を右折して多摩川へ向かう。
環八との交差点を左斜めに入るのが旧道で、
さくら坂をくだって沼部の駅の方に出る。その先に渡しがあった。
中原街道旧道さくら坂上。中央が桜坂だがほんとの旧道がその右手の道。
旧道っぽさが残っててなかなか楽しい。

・丸子橋をわたって千年へ

多摩川浅間神社のふもとにいくつかお店があるので
そこで遅いランチを食べ、
丸子橋をわたり、中原街道を西へ向かう。
丸子橋から下流の眺め。新幹線付き。XZ-10
有名な小杉御殿のクランクは現在工事中。
府中街道との交差点までショートカットするようになる。
まああのクランクは見通しも悪くて危険だったしな。
新道ができれば、クランク道は旧中原街道として残ってくれるだろうから
それもまたよし。
小杉御殿跡の西明寺前を通り、中原街道に戻り、
多摩川低地をひたすら西へ向かう。この辺平地が広く続いていて
そこら中に水路跡の暗渠がある。
江戸時代に農業用水をたくさんひきまくって、水田としてたのだろう。

多摩川はなんどの流路を変え、広い沖積平野を作った。
たとえば「丸子」という地名は多摩川の東京側に「下丸子」、
川崎側に「上丸子」とそれぞれにあるけれども、
もともと川崎側にあった「丸子」が中世に多摩川の流路が変わったことで
ふたつにわかれてしまったものといわれてる。

中原街道をしばらく延々とまっすぐ走ると(低地の道なのでまっすぐなのだ)
「千年」の交差点に出る。ここにくると、目の前がいきなり台地になる。
ここから多摩丘陵なのだ。
「千年」は明治以降に付けられた地名なのでまあ歴史的な云々はない。
千歳船橋があった「千歳村」と同じだな。あれも村がいくつか合併したとき、
名前で揉めて、縁起のいい利害関係の無い名前ってことで「千歳」とついたもの。
こっちも似たようなものだろう。
瑞祥地名というらしい。

中原街道はここで上りながら多摩丘陵の切通しを抜けて平塚へ向かうのだが、
この道はとても古い。平安時代は古代東海道でもあったくらい古いのだ。
小田原と江戸を結ぶのにちょうどいいルートでもあり、
中世以降も主要な道として使われた。
家康も東海道が整備される前はこの道をよく使っていたという。

・影向寺は奈良時代より古かった

往古の道は千年の交差点を少し過ぎたあたりから右に曲がり、
ぐいぐいひぃひぃと丘陵を上り、
しばらく道なりに進むと「影向寺」。
奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇の勅願で建立された古刹……ということになってるが、
発掘調査の結果、それよりさらに遡る7世紀後半に創建されたことがわかってる。
いわゆる「大化の改新」が645年で「壬申の乱」が672年で7世紀半ばから後半。
国郡制が整備されて国-郡という形ができあがったのが701年の大宝律令だから、
影向寺(あるいはその前身)はそのときにはあったのである。

めちゃ古いではないか。
いやはや意外なところに古史あり。
このあたりに有力な豪族がおり、そのまま郡司となったんじゃないかという話。

いい風が吹いていたので影向寺の境内で少し涼み、
手水舎でひしゃくの水を頭からかけて水冷。
真夏の自転車に欠かせないのが神社仏閣で
風はあるわ水はあるわで休憩に最適。

ここでのんびりとiPhoneを取りだし、
橘樹郡衙跡がどこなのかを探す。
詳しい場所も調べずに走ってたのかよ。はい。
影向寺の近くと聞いてたので、ここまでくればなんとかなるだろうと。
いつもそんな感じです。
iPhoneさまさまです。

で、調べた。
ちょっと通り過ぎてた。
影向寺の東に深い谷頭があり、急斜面を降りると「たちばなふれあいの森」なる公園がある。その反対側の台地の上に「たちばな古代の丘緑地」という矩形の緑地があり、
そのあたりが橘樹郡衙跡に比定されてるのだ。
東西に走る尾根道があり、その北側の谷を挟んで影向寺と郡衙があったわけですな。

高低差がきちんと描かれた明治前期の地図を見るとその立地がよくわかる。
延喜式古代東海道のルートは「地図で見る東日本の古代」による
今はマンションがたくさんたってて見通しは悪いけれども
それでもこの郡衙跡から東をみると、多摩川低地を広く見渡せる。
そういう場所に作られたのだなあと思うとちょっと感慨。

調査結果の看板。こういうのがありがたい。
まあだだっぴろい空き地です。OM-D
ちなみに、影向寺や郡衙のあった尾根の南、中原街道を挟んだ反対側の山の上には
富士見台古墳や橘樹神社がある。
影向寺の北西には古墳群もあるらしい。
往古からの大きな集落がこのあたりにあったのだ。

・登戸へ猫に会いに行く

最初の目的はこれで達成。
次の目的地は登戸。猫写真でも撮ろうと思ったわけですな。

ぐわんと坂を下って多摩川低地に戻り、
多摩丘陵沿いの古道を、
明治前期の地図を参照しつつ、追って走る。
当時あった神社がなくなってたり、
すんげー急な階段の上に神社があったり、
なかなか面白い。
明治前期の地図を見ると、山ごとに神社が作られてる感じ。

赤城神社(明治前期の神社名。今は名前が変わってるとこも多い)が妙に多いのが気になる。なんでだろ。

面白がって崖下の古道を走ってたら、溝の口を過ぎたあたりで道を間違えたことに気づく。
当初は南武線沿いに宿河原に向かって走るつもりだったのに、
気がついたらどんどん多摩川から離れて多摩丘陵にはいっていってるではないか。
見覚えのない川を渡って気づいたのだ。
明治前期の地図を参考に走るからですな。
ちゃんと現代地図をチェックしなさい。
何しろ、溝の口のあたり、流路も道路も今と全然違うのだ。
当たり前である。

で、気がついたら東高根森林公園の南の道を西に向かって走ってた。
このまま走り、神木の交差点を右折して五所塚を越えて
切通しの坂を下ればそのまま宿河原へ一直線なので
途中上りがひとつはいるけれども、そのルートをとることに。
まあそこは何度も走っている道なので迷うこともない。

ぐぉぉぉぉと時速××kmで坂を下り、宿河原で多摩川の土手に入り、
登戸で猫。
登戸の河原といえば猫。XZ-10
猫と戯れたり写真撮ったりしてたら
いつのまにか18時近くになってて、
あ、今日は日本vsウルグアイ戦じゃないかー、
と慌てて帰宅。

ふはー。
総走行距離40km弱(遠回りしたから)。

GPSログをGoogleEarth+地形図にマッピングしてみた。
武蔵野台地を削って多摩川が低地を作ったんだなってのがよくわかって面白い

無駄に遠回りしてる感がいい。
まあ久しぶりに走りたい気分だったので結果としてこうなるのもむべなるかな。

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