2011年4月5日火曜日

東京の古墳を考えた

「東京の古墳を考える」を読みながら東京の古墳を考えた。
うーむ。
「古地図とめぐる東京歴史探訪」を書いたときは、都内の古墳を回りながら、古墳にある案内板や、自治体が出してる冊子をベースに書いたんだけれども、最新の研究では古墳の年代がどんどん古くなっているらしい。
東京タワーのふもとにある芝丸山古墳も、多摩川台の亀甲山古墳も、あの辺の大きめ前方後円墳は4世紀に築造されたものと考えられてるらしい。
ちなみに、卑弥呼の時代は3世紀。仁徳天皇陵が作られたのが5世紀。ずいぶん古いのがわかろうというもの。

前方後円墳は畿内で最初に作られたものだから、4世紀の時点で東京にもそれがやってきてるってことなのだ。
すごいな。
100m規模なのではあるけれども、武蔵野台地の東端や多摩川下流の台地上に前方後円墳を作れるほど大きな集落があったということなのだ。

多摩川台古墳群はいったん衰退するが、また6〜7世紀に円墳が作られるわけで、まだまだそれなりの勢力があった。
6世紀といえば武蔵国造の乱があった頃である。

武蔵国が成立し、府中に国府が置かれたのが8世紀初頭。

府中は多摩郡の郡衙でもあり、あのあたりには熊野神社古墳など7世紀の古墳が発見されている。新興部族がいて力を持ってきて、そこに国府が定められたと思おう。
武蔵国豊島郡の郡衙は平塚神社のあたり。武蔵野台地の北辺、荒川沿いにはいくつも古墳が発見されている。
足立郡の郡衙は氷川神社あたりといわれてる。
橘樹郡衙は千年あたりの台地上でこの辺にも古墳がある。
荏原郡の郡衙がどこにあったかはさっぱりわかってないが、
武蔵国の他の郡衙は近くに古墳を持つ=律令制時代以前からの有力豪族がいた土地、であるからして、
古墳が多く残る多摩川台近辺から、芝丸山古墳があるあたりにかけての台地上どこかだったに違いあるまいと思うのである。
多摩川台は集落ができるには狭いので、その奥の田園調布や、南西にある久が原から古代東海道が通る大井町を結ぶその間あたりか。

話がずいぶん飛んだな。まいっか。

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