2012年7月24日火曜日

いい写真を撮るために

昨日、EOS Mの発表会で、こんなフレーズが出てきまして、
まあ「Hello,ミラーレスEOSスクール」の宣伝にはいるための前振りだから
(各社がこういう講座を開いてて、たいへん好評らしい)
致し方ない面もあるんだけど、
「これは違うよね」「これをメーカーがいってはだめだよね」という声多数で
上の図式があれば「上手な写真」「うまい写真」「きれいな写真」は撮れるようになるけど
それと「いい写真」は違う。
うまいけど退屈な写真より、下手だけど面白い写真の方がずっと「いい写真」なわけで。
これは写真に限らず、
すごく文章は上手で読ませるんだけどステレオタイプな結論で薄いコラムと、
文章は乱暴で間違ってるとこあるんだけど迫力があって視点がユニークで濃いコラムのどっちがいいかといわれると
圧倒的に後者なわけですよ。

じゃあ「いい写真」って何、といわれると、
それは多分その人のまなざしが表現されてる写真なわけで
面白いことに、人ってひとりひとり見てるものが全然違ってて、
その人にしか見えてないものを捉えた写真はいい写真であって、
でもそれがうまく伝わってなくて、どうすれば伝わるんだろう、
ってところではじめて技術が意味を持つわけです。
私見だけど。

誰かと一緒にカメラをもって散歩して、その人が撮った写真を見て「ああ、あれがこの人にはこんな風に見えたんだ。自分にはまったく見えてなかった視点だ」と思うと自分の凡庸さにorzするわけで、
「機材の差」だと思ってもダメです。いい写真を撮る人はiPhoneでもいい写真を撮りますから。
そういう問題じゃない。

まあ、(自分も含めて)凡庸な視点で撮った写真はどんなに上手くてもやはり凡庸だということなのですが、
それをいっちゃうとミモフタもないので誰もいわないのであります。
いいカメラを持っていて知識や技術があれば、上手な写真は撮れるようになりますし、
「上手い写真を撮りたい」というニーズは確かにありますから。


逆に、技術や知識があるがために上手に撮ろうとしたことで凡庸になっちゃったらもったいないなあ
ってこともあるのでなんとも難しいところなんだけど、
型から入って、型を極めることではじめて型にとらわれない自分だけの域に達するという
昔ながらの求道な道もあるので一概にはいえません。

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