2013年5月11日土曜日

村尾嘉陵「井の頭紀行」の足跡を辿る(「江戸近郊道しるべ」より)

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)より「井の頭紀行」。
文庫版で5ページ。東洋文庫版でも5ページ。
市谷御門から井の頭弁財天までの記述はたった3ページなるも、
その分描写がシンプルで、実際にどの道をどう歩いたか辿るのは思ったより大変。

必要なのは「東京時層地図」(あるいはその元となった明治前期の迅速測図)と
グーグルマップとぐーぐる。
文化13年(1816年)。以下は現代語訳ではなく東洋文庫版(一部、現代っぽく直してるけど)。
市谷御門を出、尾張殿御やしき前より自性院前通りを過ぎ、三光院いなり前よりゆきゆきて、左へ折れて成子通りへ出、中野より又左に折れて、堀の内妙法寺に参る……
たったこれだけで市谷門から妙法寺までどう歩いたか探すのである。
古道探偵ですな。
尾張殿御屋敷跡は今の自衛隊市谷駐屯地。 自性院は現存。三光院いなりは今の花園神社(花園神社のサイトによると俗称でそう呼ばれていたらしい)、成子通りはたぶん青梅街道のことだ。「中野より又左に折れて」は、青梅街道の鍋屋横丁の交差点。ここを鎌倉街道が通っていて古くからある道である。
鍋屋横丁の交差点を左折すると途中、妙法寺への道標が現存している。おそらくその妙法寺道を歩いたのだろう。そうするとだいたい上の記述通りになる。
こんな感じ。
さらに、
それより寺門を出て、直に南に向って行けば少し小坂あり、下りて田あるところ左右ながめよし、ここに水磨ある家あり、林のおくに車の音聞こゆ、田の中道を行きはてて縄手をゆくこと少しにて、大宮の道の北側に出
とある。妙法寺の門を出て南に向かい、鎌倉街道に合流して坂を下り、善福寺川を渡ると大宮八幡宮への参道に至る。それを指していると思う。
で、そこに八幡殿(源義家のこと)の鞍掛松伝承の記述、大宮八幡宮大門(表参道の大鳥居のことだろう)近辺の記述が加わる。
大宮八幡宮の裏門から出る。裏門がどこにあったのか明治初期の地図にはすでに載ってないのでよくわからないが、大宮八幡宮現況からすると南側の門となるか。今、大宮八幡宮の裏には大学があって抜けられないし。
……ここには参る人もなし、広前にぬかづきて、ここの裏門より出で、西に向かって行く。
道の北側は林の間に人家あり、南側はみな畑なり……

すると、現人見街道につながる古道がある。これが「府中道」であろう。
途中、下高井戸村と上高井戸村の間に石地蔵があるというが、それがどのあたりをさすかはちょっと不明。環八の内側あたりか。
このあたりは自転車で何度も走ったけど石地蔵を見た記憶はないんだよな。
いつか杉並区の郷土資料館へ行ったら調べてみよう。

さらに現人見街道を西に向かう。
久我山村、村の入口に岐路あり、庚申塚あり、ここより左に行て少し民家の間をゆきて、小坂を下れば、右手は山にて……田中の細道を南に向かって行けば、細き流れあり(神田川のこと。井の頭上水)、小橋を渡りてゆけば、少し高みにのぼる、のぼりはつれば上に玉川上水の掘り割りあり……石橋をわたす、……
一部略したけど、村入口の庚申塚はたぶん現存する庚申塔のこと。この庚申塔には右が「いのかしらみち」と書いてあるのだが、嘉陵は村に入る方を選んだようだ。
現人見街道は久我山村の南をまっすぐ抜けているが旧道は久我山駅の北側の細い道だ。
庚申塔の次の焼かれ道を右斜めにはいる。すると少し上り、線路を越えると右手に久我山稲荷神社がある。上の「右手は山にて」はこの久我山稲荷がある山を指してるのだろう。
そこから南に向かって神田川を渡り、少し上って玉川上水(玉川上水は尾根を通っているので)。当時の府中道(久我山道。今でいう人見街道)である。
玉川上水にかかっている石橋はなんと現存している。すごい。
人だけが渡れる。
嘉陵はここで橋は渡らす、玉川上水に沿って上流に向かう。
渡っても井の頭弁財天には行けたんだけどね。

玉川上水沿いに歩いて三つ目の橋を右折。
つまり井の頭弁財天への参道にはいったわけである。
あとは道なりにいくと、右手に黒い大きな門がある(今でもある)。
そこをくぐっていけば井の頭弁財天の南側の崖の上にでる。
石段が崩れていたらしいが、今はちゃんと歩いて降りられます。
わたしは自転車でそこまでいっちゃって、結局自転車をかついで階段を降りたけど。

以上。
井の頭弁財天や井の頭池、その由緒などに関する記述は省略。
まあ、
村尾嘉陵の記述と明治初期の地図と以前自転車で古道探索したときの記憶を元に、彼の足跡を辿ってみたという話でした。そうは間違ってないと思う。
詳しく知りたいという奇特な方はこちらをどうぞ。


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