2020/04/26

0426:おんぼろ車を引きつづけた人生

昼間、近所をぶらぶらとカメラ持って作例撮り散歩。
夜、ITMediaにHuawei Mate30 Proのレビューを書く。

世田谷区宝性寺境内にある以前から気になってたレリーフ。


裏に回るとこう書かれていた。

「昭和三十三年八月入寺してから三十五年の長い歳月寺門興隆に専念した
 住職上田が夫婦で頑張り乗り越えた人生苦心の姿」

お墓さがし(https://ohaka-sagashi.net/property/10066-2/)によると
同山は室町時代末期武蔵国多摩郡船橋村(現在地)に草創されました。
文禄元年(1592年)徳川家康公の旗本山本与次左衛門政法(山本勘助従兄弟の二代目)が、多摩、荏原、都築三郡の内150石の菜地を与えられ船橋村に陣屋をかまえ、同時に、当寺を祈願寺として堂宇を建立し代々舟橋村の領主として、当寺を外護してきました。
しかし、六代政矩が甲府城内で刃傷におよび、享保15年(1730年)すべての領地を没収されてしまい、外護を失った当寺は、荒廃の一途を辿りました。
とある。
同じく世田谷区船橋には小さな「山本稲荷」がある。
そこに書かれている縁起には
甲州武士山本道照公初め武田信玄公に仕え後 文禄四年東照公の家臣となり正保年代武州船橋村外数ヶ村を知行所に給わりてより郷士鈴木半右衛門と議して船橋村に陣屋を構築し……(中略)……陣屋の鬼門除稲荷宮を創建す」
つまり、山本氏は文禄四年に旗本となって江戸時代前期の正保期に陣屋を構えたということになる。山本与次左衛門政法と山本道照は同一人物と見ていいんじゃないか。
まあいずれにせよその頃の話だ。

ただ
猫の足あと(https://tesshow.jp/setagaya/temple_funabashi_hosho.html)で引用されている「せたがや社寺と史跡」によると
開基については詳細は不明であるが、寛永年間と推察されるも、元禄年間の品々も若干残置しており、墓石あるいは元禄地蔵尊も残っている。天保年間より明治中頃まで頽廃のまま住職断絶して、隣接の東覚院の住職が兼務管理していた。たまたま明治19年東覚院火災の際、当宝性寺の古記録及び過去帳など一切焼失したので、的確な史実が判明していない
とある。
史実は不明。もうちょっと調べたいけど、図書館も郷土資料館も閉館中だからなあ。

門前にある元禄期の庚申塔。地蔵尊はこの向かい側に立っている

とりあえず天保年間より荒廃。

お墓さがし(https://ohaka-sagashi.net/property/10066-2/)に
昭和33年、先代御住職龍憲師が甲府の地より晋山し、当時40歳半ばにあった龍憲師のたゆまぬ復興への努力に、檀信徒家の信施を得て、現在の古刹というにふさわしい山容を整えるに至りました。
とあるので、それがレリーフに描かれた住職なのだろう。
もともと家康公の旗本だった甲府出身の山本氏が領主として陣屋を構え、祈願寺としたものという。
隣地には世田谷区船橋の鎮守である天祖神社がある。
明治期の神仏分離令によって宝性寺と分離したものだろう。


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